大蓮寺の沿革

文教と芸能の源流、いのちの営みを結ぶ、大蓮寺の伝統の軌跡です。

足利家の祈願所として開創

なにわの名刹・浄土宗大蓮寺は、いまから450 年前の天文19年(1550年)3月5日、時の将軍足利義晴の三男坊・晴誉上人によって、足利家の大坂祈願所として創建されました。正式な山号は「浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺」。

当時5千坪を有したといわれる大蓮寺は、その頃から大阪屈指の寺院として名高く、近世には徳川家の祈願所として愛護され、浄土宗別格寺院としての威容を誇りました。境内は東西五町南北四町、塔頭8ヶ寺、直末75ヶ寺を有したといわれます。

明治45年、大阪大火によって境内の一部を焼失。昭和20年3月14日大阪大空襲により伽藍を焼失して、戦後再建されました。寛永期造立された梵鐘は総高206cm、市中第一といわれましたが、戦時中に供出されました。

文教の大蓮寺

また、大蓮寺では近世から大規模な寺子屋が開かれ、根来誠齋や石田梅岩とも縁が深く、顕彰碑や門弟の墓碑が現存しています。広大な寺域ではしばしば出開帳や勧進興行も催され、「摂津名所図会」に記録があります。また大坂三十三ヶ所観音霊場巡礼の二十八番札所としても知られ、往時のにぎわいは近松門左衛門の名作「曽根崎心中」にも描かれています。

明治29年には天王寺中学校(現高校)、高津小学校が当山で発祥、昭和28年には境内に直営のパドマ幼稚園を開園、平成9年には塔頭・應典院を再建、社会教育や芸術活動に取り組むなど、現代も地域文教の寺院として広く親しまれています。

大阪随一の寺町・下寺町

ちなみに大蓮寺を先頭として南北に連なる下寺町を紹介しておきます。

大阪の陣後、松平忠明が大坂城下の整理再編を行った際、大阪城の弱点といわれる南側に防御線として寺院を集中させました。城下に点在していた浄土真宗以外の寺院寺を郊外に移転させ、そのうち最も南西に形成されたのが下寺町で、上町台地の西麓に位置することから古くは西寺町とも呼ばれました。江戸時代においては庶民の散策の地として大いににぎわいました。

現在は、大蓮寺から南へ約1キロにわたり24ヶ寺浄土系の寺院が並び、さらに南詰めには骨仏で有名な一心寺、その東側の四天王寺が構え、それに添って生国魂の斜面緑地や風情のある天王寺七坂など、独特の景観を維持しており、いまなお、歴史や自然を求める人々の来訪が絶えません。