人生会議。永代供養墓のある風景。

(2023年02月02日 更新)

永代供養墓の大きな新聞広告も普通になった。郊外では公営バスの社外広告も永代供養かお葬式だ。それだけ需要が大きいのだろう。大蓮寺が始めた20年前は、むしろ家墓制度から取りこぼされた人々のために建立したのだが、今は、巷は「顧客開拓」に熱心に見える。ご縁は求めるものだから広告もあっていいのだが、しかし、お寺も同じようであれば、墓石業者と大差ない。

以前も書いたのだが、永代供養墓は生前の関係性を引き出すインセティブ(誘因)であって、そのためのアプローチを工夫することでお寺の未来も変わる可能性を踏めているのではないか。

例えば、医療や看護に目を向けてみよう。
数年前、厚労省がACP(アドバンス・ケア・プランニング)として、「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」を制定した。地域の資源を活用して、在宅や施設における療養や看取りを促進していこうとしているのだが、シニカルに言えば、地域期待の過剰、地域幻想といえなくもない。家族や専門職以外、他人様の生き死にに関わる人(ボランティア含む)はそう多くはならないだろう。

地域のお寺の資源力が再評価されていいのではないか。お寺の「癒し」「祈り」そして「学び」は、ACPの別名「人生会議」にふさわしい。問われるのは、医療サービスについてというより、本人の死生観であり価値観に基づく意思であり、生死の哲学である。医者や看護師に決めてもらう筋合いではない。
「人生会議」とは言い換えれば医療版「終活」みたいなものだ。誰もがまず、「終末期医療・延命治療」について意思表示が必要と考えるが、「葬儀や墓」への関心もそれと並ぶほど大きい。僧侶や寺がそこにかかわる余地は大きい。より医療や看護との連携が必要となってくるのだろうし(医療看護はどんどん地域化が加速している)、何よりも対話や相談の質が変わっていくに違いない。

先日、大蓮寺でお寺のコミュニティケアのイベントを開いた。お寺を拠点に、「子ども食堂」「介護者カフェ」「まちの保健室」の実践を紹介したのだが、そういう場がご縁となってお寺の認知や交流、ひいては信頼が生まれればと思う。入り口はなんでもいいのだ。いきなり人生会議など持ち出さなくても、お寺に親しんでいくうちに自ずと対話や相談が生まれていく。生きること死ぬことが感じ取られていく。その行方に、永代供養墓のある風景があれば、こころ穏やかに生きることができるのではないか。そう思う。