食べるとは「祈り」。仏教食育とは。

(2015年03月09日 更新)

昨年9月から始まったパドマ幼稚園の新しい自園給食、新年度からさらに内容を刷新して、「仏教食育」として再出発します。
なぜ「仏教食育」なのか。その考え方について少しお話しておきます。

日本人の食生活もすっかり欧米化した感がありますが、もともと私たちの先祖は、穀物と野菜、味噌汁という一汁一菜の粗食の文化を保ってきました。なぜでしょうか。
日本人は器を手にもって食事をとります。食器を手に持つ文化は他の国々にはありません。むろん居住や座法という影響もありますが、もっとも大事なことは日本人にとって食べることが「いただくこと」、つまり「祈り」と同義であったからです。

文法上は「食べる」の謙譲語ですが、「いただく」には、「敬意を表して高くささげる。頭上におしいただく」という意味があります。「食べる」のは自分ですが、「いただく」のは誰かから授けられたからです。
ですから、日本人は本来、過剰な食物摂取を好まなかった。むしろ、食に求めたのは、作法であり、真心でした。
尊いいのちをいただく畏れと敬い。たくさんの方々、調理をしていただいた方への感謝、さらに食を分かち合う仲間(家族や同級生、同僚など)への共感が込められていました。そこには肉類を慎み、過食を戒め、また食作法を重んじる伝統様式が生活の中に定着していたのです。仏教の精進料理はその原型を今もとどめる貴重なスタイルといえるでしょう。

いまそういった作法や真心を引き継ぐ家庭も、学校もほぼ皆無となりました。家族の食は消費的なものへ、学校給食はひたすら栄養本位に傾斜していく。いえ、何でも昔に戻れといいたいのではありませんが、どんなに便利になっても、どんなにゆたかになっても、日本人がなぜ食を「いただいて」きたのか、その真意を忘れてはならないと思います。

パドマ幼稚園の健脳給食には、昔から食作法が伴っていました。さらに新年度からは、黙食(もくじき:黙っていただく)の実践や、木箸・竹箸の採用、汁椀の変更などを予定しています(副食にも1品追加となり、3品が基本となります)。
そのねらいは、食を通してもう一度「祈り」を取り戻すこと。いえ、子どもにとっては「取り戻す」のでなく、これが食の初体験に等しい。人生の最初期にその心を育むことで、いのちを思う、おかげに感謝する、そんな人格を育てたいと考えています。