世界を震撼させた9・11から20年の歳月が流れました。
各地で追悼の場が設けられましたが、それをどう永久的に次の時代へ伝承するのか、広島に原爆ドームや資料館があるように、世界中に様々な記念館(メモリアルミュージアム)が建築されています。
まさにグラウンド・ゼロのすぐ側に立つ国立9.11追悼博物館開館は2014年のこと、その直後にNYを訪れ、見学する機会がありました。今やここはテロの記憶を止め、また次世代へ語りつぐ場所として、世界中からツーリストを集める名所となっています。
さすがアメリカです。洗練されたエキジビションは、しめやかな追悼施設というより、ある種、歴史的悲劇を追体験するような構成になっていて、現代アートと見紛うような展示物に釘付けになりました。一方的にイスラム・テロを指弾するわけではない。多民族国家の配慮も感じました。
そういった負の遺産に興味があって、この10年の間に、ベルリンのユダヤ博物館やホロコースト慰霊碑、南京の南京大虐殺記念館にも足を運びました。怨念や告発や懺悔やそれぞれ意趣は異なるが、どこでも歴史に向き合う重み、厳しさを感じます。観光客が気軽に写真を撮る気になれないそういう神聖空間でもありました。
戦争博物館と、テロの博物館では時間的隔たりはありますが、それでも関係する生存者はまだ多いことでしょう。当事者に最大の配慮をしながら、歴史を風化させることなく、誇張や翻案を避け、世界的な追悼空間をどう「デザイン」するのか。難題ではあるが、もっとも宗教的な感覚とアートと交感する領域であるとも感じます。
こうしたメモリアルミュージアム自体、誰にも好ましい存在ではないのかもしれません(震災遺構の扱いは賛否両論です)。しかし、記録は永久に保管されても、記憶として未来へ伝承されていくか、それにしては私たちは余りに忘れやすく冷めやすい動物です。時間を超えて、共通の記憶を想起して、悲しみや嘆きの感性を取り戻す。立場を違えど、お寺もそうした記憶の伝承の場所でありたいと思うのです。