書店の仏教書の棚に行くと、最近、面白い現象があるのに気づく。若手の、それも30代の僧侶が書いた本が結構新刊されているのだ。松本紹圭(35歳)「お寺の教科書」(徳間書店)、大河内大博(35歳)「今、この身で生きる」(ワニブックス)池口龍法(34歳)「お寺に行こう!」(講談社)…いわゆる仏教系の出版社でないところから刊行されているのも特徴だ。
ポッと出てきたのではない。若い著者たちを、私はかなり以前から知っているが、20代の頃から独自の活動を積み重ねてきた「実践家」揃いだ。仏教書といえば、高僧や文化人の十八番と決まっていたが、そこに凛々しい鼓動が脈打ち始めている。うれしくもあり、また頼もしくもある。
彼らに共通するものは、いずれもホーム専従ではなく、最初からアウェーを活動領域にしていること。アウェーとは、例えば特定宗派に閉じない超宗派であったり、布教・教化に限定しない社会活動であったり、もちろん自身の軸足はホーム(なぜか皆、浄土系だ)に置きながら、宗門とか寺社会の因襲を軽々と超えていく。その傾向は彼らに限ったことではなく、とりわけ3.11以降顕著だ。
震災前が書いた「葬式をしない寺」で、私は彼らの動きを「関係性の仏教」としてこのように述べている。「(社会と向き合うと)『関係性の仏教』にはまずこれまでのような布教の成果を挙げることはできない、という断念から出発しなくてはなりません。しかし、その断念の上になお、目の前の社会の状況に何かしないではいられない、と強く願うむき出しの信心に出会います。そこから僧侶を生きるという、発心のエネルギーが放出されてくるのだと思います」
かなり堅いかもしれないが、この新たな発心の放出は、それから3年経ってさらに著しいように思う。
彼らの父親世代に近い私から見て、その背景をいくつか見て取ることができる。
まず生まれ育った世代感覚のようなものが共通している。高度成長を支えた団塊世代を親に持ちながら、自身はずっと低成長下にあった。個の力が問われ、その分組織におもねらない。私のような組織に期待をしつつ、失望していた世代と違って、最初から教団とか寺社会にこだわらない。起業家精神のようなものもあるだろう。
ネットの力も大きい。コミュニケーションの形が劇的に変わり、相手との垣根や境界を払っていく。宗門の中で自己完結する時代は終わったのだ。
そして、いちばん大きいのは、社会と相対化しながら、一人の仏教者としての立ち位置を探り出そうとしていること。当然そこには外部との対話や交流があったわけで、成功の数以上の失敗もあったはずだ。社会から揺さぶられたり、問い直されたり、時には冷笑を買ったこともあるかもしれない。そういう「もがき」の体験は、彼らの実力の大きな幹を成す。ホームは、アウェーの数だけ鍛えられていくのだ。
池口さんは「フリースタイルな僧侶たち」という情報誌を出しながら、一方でインド仏教の「俱舎論」を8年かけてアーカイブ化しようとしている。
松本さんとの対談(彼岸寺)で彼は、その試みについてこうも語るのだ。
「仏教の大きな枠組みも大変ですけど、やっぱり必要だと思うんですよ。OS(俱舎論を指す)がきちっとしてくれば、共通の対話ができるようになってくる。共通のルールだけ決めておけば、思想の自由、言論の自由は担保されるし。仏教っていうのはこういうものですよっていう教義的なおさえ、行動規範を整える。そのパーツをどう使うかっていうのはそれぞれの宗派でやればいいけど、共通のOSを整備したいなと」
彼らに共通する、この規範感覚みたいなものが、現場に埋もれてきた私にはうらやましい。