小泉八雲が見た日本。心景をたいせつにしよう。

(2026年01月05日 更新)

新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

NHKの朝ドラでも知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、『怪談』に先立ち、日本の面影という紀行文学を著しました。明治中期の日本を訪れ、各地で見聞きした人びとの暮らしや文化、風習を、深い敬意と驚きをもって描いた書です。八雲は、日本の魅力は制度や知識階級にあるのではなく、名もなき庶民の生活の中にこそ息づいていると語りました。

彼が繰り返し描いた美意識を一言で表すなら、「消えゆくものの美しさ」と言えるでしょう。残るもの、形あるものの美ではなく、過ぎ去っていくものをなお大切に見つめる感受性です。祭りが終わったあとの静けさ、咲き誇った桜が散っていく潔さ、昼と夜の境目に訪れる夕暮れの時間。八雲は、そうした「気配」や「余韻」に、日本文化の基層があると感じ取っていました。それは「いとしさ」や「せつなさ」と言い換えることもできるでしょう。

しかし現代社会では、こうした感覚は次第に顧みられなくなっています。活気に満ち、目に見え、成果として示せるものこそが価値であるという前提のもとでは、老いや死、衰えや別れは、できるだけ遠ざけたいものとして扱われがちです。八雲が今から約130年前に記した「惜別のまなざし」は、そのまま現代の私たちに向けられた問いとして読むことができます。

仏教では、世界をどう見るかということを「観」と呼びます。八雲は、苔むし、風雨にさらされ、やがて朽ちていきそうな古い寺院を美しいと書きました。彼のまなざしにおいて、朽ちることは無価値ではありません。そこには、移ろいを否定せず、そのまま引き受ける無常観が、確かに横たわっています。

同じ世界であっても、怒りの心で見れば荒々しく、感謝の心で見れば、やさしく慈しみに満ちて見えてきます。対象が変わるのではなく、それを受け取る心が変わることで、世界の姿が変わるのです。主体性や自己決定が重んじられる時代だからこそ、何を成すか以前に、どのような「観」を育てているかが、問われているのではないでしょうか。

日本語には、「心景(しんけい)」という美しい言葉があります。心に映る景色、という意味です。八雲が敬い続けたのも、まさにこの心の景色でした。形あるものに振り回されるのではなく、自らの心がどのように世界を映し出しているのかを、静かに見つめ直すこと。この一年、どうかそれぞれの心景を大切にしながら、穏やかな歩みを重ねていただければと願っております。