遊行(ゆぎょう)の心。歩けばこその功徳あり。

(2021年12月23日 更新)

今年から腕にはめる万歩計を買って、スマホで歩数を記録することにしました。毎日1万2千歩が目標ですが、足りない日は夜の寺町を四天王寺まで早足で歩きます。食後のかなり遅い時間になっても、意外に同様にウォーキングに勤しむ人影は多く見かけます。文字通り「同信同行」の徒として少しよろこびを感じます。

歩くことの効能は、言うまでもありませんが、有酸素運動、主に体脂肪燃焼や体質改善、生活習慣病予防などいろいろです。認知症予防にも有効です。さらに人は、歩くのみに徹していると、頭の中に記憶が蘇ったり、思いがけないアイデアが閃いたりします。ある研究によれば脳の創造的な働きは座っているより動いている時の方が60%もアップするとか。西田幾多郎ではありませんが、散歩は思索にふさわしい経験なのです。

今年、コロナ禍で運動不足に陥り、その分近郊のウォーキングを始めた人も多いと聞きます。まさにコロナを蹴飛ばすように歩け歩けです。

仏教でいう「遊行」とは、各地を巡り歩いて修行することを指しますが、もとは「ただひたすら歩く」という意味があります。それが聖地と組み合わさったものが巡礼です。日本では四国のお遍路さん、紀伊の熊野参詣が有名ですが、世界中に古来から続く「聖地巡礼」があります。

歩きながら人は何を思い、何を気づき、そして祈るのでしょうか。巡礼は数日では終わりません。長い時には数ヶ月かかることもザラにあります。長い旅路ですから途中雨風に祟られたり、食事にありつけなかったり、命の危険にさらされることもあるでしょう。いつも世話されたり、サービスされることに慣れきった身には、生死の感覚が呼び覚まされる経験となるでしょう。逆に同行の巡礼者や往来の人々に助けられることもあるでしょう。人の慈愛や奉仕の心に胸打たれるでしょう。

巡礼の目的は、み仏への報恩感謝です。その途上にあって、何かに畏れたり、すがったり、またどこか心洗われるような、そんな心の浄化作用があるのではないでしょうか。そして歩いて歩いて歩き尽くした向こう側に、初めて西方浄土の光景が見えてくるのだと思います。歩けばこその功徳です。

今日のウォーキングでは雑念を払い心を整え、小さな声で「南無阿弥陀仏」を唱えてみましょう。阿弥陀様が必ず微笑みを送ってくださいますよ。よい年をお迎えください。