大蓮寺がNPO法人「りすシステム」と生前契約を始めたのは、今から5年前である。永代供養墓を始めた当初から、契約者の多くが単身者で、死後の葬儀や埋葬の「責任」をどう果たすべきか、思案を重ねてきた。
最初は「りす」からのオファーが先だったのだが、正直言うと、私には「生前契約」という言葉にも軽い抵抗感があった。何事も契約本位で、本人はまだ元気なのに、早々と「葬式はいくら」「お布施はいくら」と金額を明記させようとする。人の心境は移ろうのに、そういう計画主義にもためらいがあった。
そう構えていられなくなったのは、単身契約者の増加以上に大蓮寺の檀信徒からも同様の相談が出てきたからである。「私のお葬式はお寺で」と言ってくれても、それを死後誰が執行するのか、お寺は「そちらからどうぞ」と不問にしてきた。寺の責任範囲はこの10年で一気に拡大した。
以来、永代供養の生前申込者から、大蓮寺の檀信徒へ利用者は広がり、合わせて10名を超える。お寺的には「お葬式とお墓」なのだが、「りす」の守備範囲はもっと広い。単身者の住居の世話、入院の保証人、時には買い物の付き添いまで、死後事務のみならず膨大な生前事務まで対応している。公的福祉ではない。頭が下がる。
こんな体験もある。永代供養墓の契約者だったJさんが亡くなった。長い施設暮らしだった。「りす」が対応して、先日、お骨をお墓に埋葬した。納骨法要には、私と連れ合いと、「りす」の職員2名のみ。血縁者も友人もいない。Jさんの末期、いちばん親しかった(頼りにされた)面々である。さびしい最後という人もいるかもしれないが、Jさんは望み通り、大蓮寺のお墓に埋葬され、永代に供養される。自分の遺志をこうして確実に遂行されること以上、彼女の安心はなかったのではないか。
おひとりさまの時代の終活とは詰まるところ、「自分の死後を託す人」との出会いである。生前にお墓や納骨堂を求めたところで、その事実を本人以外に知る人がいなければ、またあなたの思いを実行してくれる人がいなければ、準備はすべて無駄となる。
「最後まで自分らしく」ありたい、と皆言う。血縁が絶えていくのであればなおさら、それを支え合う、生前の人間関係こそ大切だと、思う。