今朝の朝日新聞折り込みのbeに「狂い咲きサンダーロード」が載っている。この連載は、過去の日本映画を中心に、映画製作にまつわるバックストーリーを扱って面白いのだが、こんな作品まで取り上げてくれるとは。記者のセンスだろう。
みんなトンがっていた。監督の石井聰亙(現・岳龍)22歳、助監督緒方明19歳、スタッフには阪本順治もいたし松岡譲二もいた。撮影は名手笠松則通。役者にはピンクの巨匠佐野和宏。09年にガンで亡くなった主演山田辰夫は、映画の主人公そのまま駆け抜けた。弾けるような才能の坩堝ではあった…が、技術がない、カネがない。そういう熱さに震える現場だったのだが、詳しくは本文を読んでほしい。
プロデューサーだった私のコメントが紹介されている。
「80年代に入り、若者が消費文化に巻き込まれる中、それに満足できない作り手と観客が、自分たちの世代ならではの新しい表現を探していた。そんな時代にぴたりとシンクロしたのだろう」
何だか一人、冷めたことを言っているようだが、いま振り返ると、この映画も時代の熱気が生み出したのだと思う。70年代末期から80年代のかかり、映画でいえば、角川映画が大作路線を打ち出していた頃だ。撮影所の人材供給システムが破綻して、各地で情報誌が台頭していた。都内の名画座をはじめ、映画興行会社でもない独立プロでもない、新たな「産地直送」システムが動き始めていた。「自主映画」が生まれる素地は十分あったのだ。
自主映画。インディーズではない。資本の映画に対抗するにはまだ脆弱だったが、しかし、少なくともその「自主」を主体とならしめる環境やサポートがあったことも事実だ。先述した情報誌も名画座も、あるいは私が製作資金を借りまくった(今思えば、恥ずかしい体験なのだが…)当時30代、40代の大人たちも、未知数の才能を何とかしようという文化的野心があったのだと思う。自主映画は、現場の才能だけでは成り立たなかったのだ。
今ならNPOとかクラウドとかあるのかもしれないが、映画が「公共」に与することの善し悪しもある。個人の責任で、おもしろいことをしよう、という「やんちゃな(志のある)大人たち」に育てられた。映画が時代を象徴するのは、そういう側面からも窺える。そこが、今の「製作委員会方式」とは決定的に違う。
しかし、もはやカルトムービーの域にある「狂い咲きサンダーロード」だが、四半世紀を経てまだこうして語り継がれてることの僥倖を感じない訳にいかない。監督ならともかく、私の履歴からも未だこの映画は割愛されない。
映画の持久力というか、記憶に焼き付かれた映画の体験は枯れることを知らないのである。石井監督、緒方監督、ありがとうございます。