結局、老いの先はわからない

(2014年01月25日 更新)

 テレビの似た年齢の男の顔がアップになると、見入ってしまう。ほう、五十八歳とかはこんな顔なのか。髪は薄く、肌は荒れ、皮膚はたるんで、顔全体に品性のあるなしがくっきりと浮かぶ。今のテレビは余計なところまで映し出す高画像だからか、その分、他人の顔を見て、自分の加齢を実感したりする。
 人のことなどどうでもいいではないか。人間、顔じゃない。とかいいながら、「いやぁ、五十そこそこにしか見えないですよ」とか言われて、まんざらでもない自分がいるのだ。まぁ、ご同輩は少なくないだろう。
 なぜこんな恥ずかしいことを書くかというと、作家の黒井千次が齢八十を超えてこんな所感を述べているからだ(読売「時のかくれん坊」0123)。
 「七十代の間は、自分が幾齢であるかと意識することが多かった。ところが八十代への坂を登りきってそこに足を踏み込むと、その年齢がすっと身から離れていくような感じが強くなった。自分のこととしてその年齢を掴む事が難しくなった気がする」
 テレビで見ていると…とは書いていないが、「他人の年齢は客観的に眺められるからその年齢に驚いてしまったりするのか」とも書いている。
 つづいて黒井はおもしろいことを指摘している。なぜ乳幼児は歳を聞かれると、推定された年齢は常に実年齢より上で、老人はその逆を期待するのか。「あなたおいくつ?三歳?」とか聞いて、実際「二歳」だったりすると、「まぁ、しっかりしているねぇ」と大仰に誉めるのが常だ。反対に老人には「とてもそんなお歳には見えませんねぇ」と世辞を言う。
 「若い頃はより年長に見え、老いた後はより若く見える事が望ましく、そして青春から中年、壮年といった季節にはさほど年齢が深刻な話題にならない」という傾向があるのではないか、と言うのだ。
 女性はアラサーとかアラフォーとか言うし、そのあたりは敏感なのだろうし、男も定年間近になるとその加齢を無意識にでも抑えようとする。私がテレビの同世代の顔を見てドキッとするのは、その抑止がもはや食い止めることができない現実だと思い知るからだろう。
 いまは年齢より病気のほうが限界を知る契機になっている。ガン、心臓病、高血圧に糖尿病…年齢ではなく、病気によって老いを感じ始める。「高齢者」といより「病人」といわれるほうが、ふさわしいのだろう。
 加齢が誰にでも等しい時間であるのに対し、病気は個人にふりかかるアクシデントだ。逆に言えば、それさえすり抜けることができれば、人間一生元気に生き抜ける? アンチエイジングとか一生現役とか、そうわが身を鼓舞しながら老いの時間を留めようとしているのだろうか。
 「幼児の折に早い成長ぶりに感嘆し、年を重ねた後は心身の衰えの進まぬことを喜ぶのだとしたら、人間とは随分自分勝手な生き物だ、といわねばならない。本当は時の流れに早いも遅いもないとのだとしたら、その中で年齢をどう扱うかは意外に難しい宿題であるのかもしれぬ」
 私の老いの先はわからない。枯れた老境に浸るように思えないが、ジタバタするのは嫌だ。「引退したらどうするの」と友人に聞かれたら、「猫カフェ」とかいって煙に撒くことにしている。だが、意識だけは向けておこうと思う。誰一人、早すぎることはけっしてないのだ。
 黒井の最後の言葉に頷く。

「停まってみなければ、結局、時というものはよくわからぬのかもしれない」