終活より、宗活

(2014年04月13日 更新)

 昨日、終活シンポジウムがあった。会場は200人少しくらいだが、意外にスーツ族が多かった。「終活」周辺の事業者だろう。あちこちで名刺交換する場面が見られた。1時間半ほどのシンポだが、話題の中心はやはりエンディングノートだった。いつ書くか、何を書くか、誰に伝えるか…「ノートはお世話になった人たちへ感謝のあらわれ」というが、反面「自己決定」を促して、早くビジネスに運びたい人たちの思惑も見え隠れする。
 ノートの意義は承知しているが、書かない自由もあっていいはずだ。認知度は高いが、実際に書いた人はわずか6%というデータもある。書き終えること自体がゴールなのではない。その記述を通して養うべきものがあるはずであって、それを死生観というなら、いまの終活ブームは肝心のものを棚上げにしたまま、現象だけが先走っていないか。
 シンポの最後に、私は「終活」ではなく「宗活」の話をした。「宗」という字の原義は「最重要なこと」である。
 「宗活」にはふたつの側面がある、と述べた。まず、死生観を学ぶこと。「生死一大事」である。日本浄土教はその極北にあるのだから、まずきちんと浄土思想を学んでみる。世界の宗教が生死をどうとらえてきたか俯瞰することも大事だろう。いや、宗教に限らない。哲学、文学、芸術はその「答えのない問い」を抱え続けてきたのであって、その叡智にふれない手はない。小説しかり、映画しかり。小津安二郎の名画を見直す時間を持てばいい。 
 本来、死生観は知識や情報として学ぶものではない。風土や文化を土壌として、長い時間をかけて人々の生活や暮らしの中から掬い取られるものだ。だが、もし今の日本人に死生観が欠いてしまっているのだとしたら、まずそれを認識した上で、精神の源流を辿るべきべきではないか。
 「宗活」のもうひとつは、儀礼をきちんと勤めることである。形式だ、形骸だと敬遠されることが多いが、すべての儀式は小さな死と再生をくりかえしている。何かが終わって、何かと出会う。厄払いや年祝いも含め、人生儀礼では自分の生涯がいくつかの節目によって構成されていることに気づかされるのである。
 我田引水に聞こえるかもしれないが、「終活」に走る人たちは寺参りはしているのだろうか。毎年彼岸や盆が巡るたび、また年回法要のたびに、死者と向き合うのだが、先祖供養とはある種の死の予行演習でもあるのではないか。くりかえし儀礼の中に溶け込んでいくことで、われわれは生者だけでなく死者とともに共生していることに目覚めていくのだと思う。
 エンディングノートはもちろん、あっていい。死を自覚すること、予知することは、後半人生を成熟させる機縁である。だが、ノートの書き手である日本人一人一人の素養も問われなければ、「終活」は単なるサービスの便法として取って代わられないか。「宗活」は「終活」を成熟させる。そんな気もするのである。