柳田邦男さんの本を読んでいたら、亡くなった河合隼雄さんの言葉としてこう紹介があった。
「死後の生命があるかないかなどと議論するよりも、それについてのイメージを創りだすことによって、われわれの人生はより豊かになり、より全体的な姿をとることになるのである。死後の生命という視座から現世の生を照らし出すことによって、より意義のある生の把握が可能となるのである」
柳田さんはそれを引いて、「死を物語る」ことと「死を創る作業」は表裏をなすものと言う。「死後生」もその最たるものだが、自分なりの「神話の知」(河合)をもつことは、自分が老いや死をどう受け入れるかという点で有用であると。
書物の中では言及されないが、日本の浄土教の臨床的な有用性はそこにある、と思う。誰かが思いついた薄っぺらな物語ではない。およそ一千年にわたって日本人の中に染み渡ってきた筋金入りの「往生」の物語である。
日本人の死生観にスタンダードはない。終活には熱心だが、死の哲学や信念を語る人はほんのわずかに過ぎない。残念なことだが、浄土教も先祖供養の教えとして説かれても、臨床の物語として説かれることはない。多死社会の渦中にいながら、仏教は生死の瀬戸際に響いていない。そもそも現場がないのである。
一部の僧侶たちが医療者と組んで、病院ケアに参加したりする先駆的なケースはこれまでもあった。ある宗派はビハーラの病院をつくって、そこに僧侶を常駐させている。意味のある実践だが、果たして「病院」というシステムに、どこまで物語が響くのか。物語はその人が生きた風土や生活や関係性の中でこそ育まれるものではないだろうか。病院より在宅。そこに看取りの文化が生まれる。
尊敬する浄土宗僧侶大河内大博さんら仏教看護・ビハーラ学会が、應典院で現代の臨終行儀を考えるつどいを開催することになった。
すでに昨年9月から例会が重ねられ、そのまとめとして企画されたのだが、これまで参加しているメンバーが医師、看護師、介護士やケアマネというのが興味深い。たぶんそこでは仏教に何か格別の注目とか期待があるわけではないのだろう。浄土の物語が忽ち臨床に復活する、なんてことも思っていない。
でも、だから無関心なのではなく、「お寺そのものをアウェイし」(大河内さん)ながら、対話や交流を重ねていくところから始めてみる。認識違いもあれば無理解もあるだろうが、そうしたあわいから、だんだんと「日本人の生き方/死に方」の物語が語りなおされていくのかもしれない、と思う。それはおそらく古くて新しい、われわれの物語である。
野心的な試みだ。医療者、看護者、宗教者がフランクに集える場になればいいと思う。
日程は3月15日(日)14時から。1部には、宗教学者の島薗進先生が日本人の死生観について基調講演。2部では医療や看護関係の方と、私も参加させていただき、シンポジウムを行う。参加費1500円。
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