白衣式と黒衣式

(2014年05月26日 更新)

 はじめて僧侶の黒衣を着たのは、小学5年生である。以来、私の感覚では、30代半ばあたりまで、衣を「着ていた」のではなく、衣に「着られていた」ように思う。恥ずかしながら大抵は型が崩れ、襟元は乱れていた。物心いずれの面からも、身の丈に合っていない。黒衣の重さに、私の未熟な心身が応えられていなかったのだろう(もちろん個人差はあるが)。
 50代後半になれば、多少は馴染みもする。黒衣はようやく身体に適うものとなり、それなりの様となったが、私がそう実感できたのは、やはり「現場」の数々で黒衣の「威力」を知ったからである。法務でももちろんだが、市井に出るほど人々は黒衣に羨望と奇異の入り交じったまなざしを送る。それがただの衣装とは違う、僧侶の人格と使命のしるしだからだろう、と思う。
 「白衣式」という儀式があるらしい。大学の医学部で、5年生になって臨床実習を始める段階で、学生たちが真新しい白衣に袖を通す儀式である。
 慶應大学医学部教授の三村将さんが、「なぜ白衣を着るのか」という短いエッセイを書いていた(日経5月22日)。

 「特定の〈衣〉を身にまとう職業が三つあります。その一つが医師、二つ目は法衣を着る裁判官。そして三つ目は袈裟や司祭服に身を包む聖職者です。人の罪を裁くのも、人の罪を許すのも、そして人の命にかかわるのも、神のみが行いうる行為であって、本来人に許されません。そして、人がこれらの行為を成すには、衣をまとって神の前で宣誓を行う(プロフェス)ことが求められます。これがこの三つの職業を指すプロフェッションの語源です」

 恐らく白衣、(裁判官の)法衣、黒衣とも、神聖な価値をその衣装ごとに賦与されたものであるのだろう。ときに権威であり、信頼であり、畏怖される対象でもあった「衣」の重みを、私はこの歳になって感じることが多い。
 いや、医師や裁判官のように謹厳たれ、と言っているのではない。高度な専門知識や技術はなくても、「黒衣」には幾多の悲しみと励みの匂いが染み付いているものだから。資格とか履修とかを超えたところで汚され、破られ、揉まれながら、黒衣はだんだんと本物の黒衣となっていく。
 ひとたび白衣をまとえば、医師は患者のために力を尽くすことを誓う、と三村さんは言う。ならば、黒衣はどうか。僧侶は誰のために何を尽くすのか。白衣が患者の血で汚れるように、われわれの黒衣は何で汚れていくのだろうか。ふと思うのである。


平成25年度白衣式の開催:慶應義塾大学医学部・医学研究科
慶應義塾大学医学部・医学研究科