死者の記憶を立て直す。是枝裕和監督の新作映画から。

(2016年06月05日 更新)

線香立てに線香がうまく立たない。気がつくと燃えかすが詰まっていたので、古新聞に灰をぶちまけて、埋もれていた線香をよりわける。そういう体験はあるだろうか。

むろん線香をつける際に気づいたのだから、命日とかあるいは盆とか季節は限られてくるだろう。時間的には朝や昼間の人の動いている時間帯ではない。そして、私には何となくなのだが、その「仕事」は、娘ではなく息子にこそふさわしいとも思う。

 

是枝裕和監督の新作映画「海よりもまだ深く」に、まったくそのままのシーンが出てくる。私は密かに「仏壇映画」と名づけているのだが、この監督の作品には仏壇が極めて重要な役割をもって登場する。「そして、父になる」にしても、「海街ダイアリー」にしても、ここにはいない誰かとの紐帯を結ぶかのように、仏壇を参るシーンがしばしば描かれる。

新作映画は、かつての傑作「歩いても 歩いても」の姉妹編のような内容なのだが、団地の狭い空間で家族の織り成す関係を結ぶ存在として、仏壇(タンスの上の据え置き型!)がたいせつな役割を持つ。

 

映画の内容は別に譲るが、是枝監督が自身の体験として「線香の燃えかすのよりわけ」をエッセイに書いている(読売0519)。

(そのように燃えかすをよりわけながら)僕は父の葬式のことを思い出していた。火葬場でのお骨上げ。骨壺に納まりきれない骨を見て、葬儀場の人が『昔の人は骨が立派なので…』と説明してくれた。(父は思い通りの人生を送れただろうか)と、ふとそんな問いが頭に浮かんだ

『思うようにならなかったんだろうね、時代のせいで』と母に言ったら、『時代のせいにしちゃったのよ』と冷たく言い放たれたけれど。

線香を片付けて灰をすっかりきれいにした時には、時計は午前3時を回っていた。僕は新しく線香に火を点け、一本灰の中に立てた

 

そして、この一連の出来事が台風の晩の話として着想されるのだが、仏壇の線香立てひとつから、監督自身の亡父への追慕の念が染み渡ってくる。映画はそういう日常のある体験の一コマから着想されることがあるのだが、同じように死者への供養も、日々の暮らしやさりげないふるまいの中から思い起こされることがあるのだと思う。

2年前父親を亡くした私にも、感じることがある。仏壇の中の父はもうすでにここにはいない。時間を経て、晩年の父との間にあった葛藤は消え去り、いまある父の記憶はすべてが美しく清浄である。線香の燃えかすをよりだす作業は、いわば埋もれていた思い出を一つ一つ取り出し、新たな死者の記憶として「立て直す」ことなのだと思う。

 

息子から父への愛は、やはりこんな風にいつも遅れてしまうもののようである

公式サイト「海よりもまだ深く」