森の幼稚園で考えたこと。 子どもの自主性とは何か。

(2018年10月22日 更新)

■ドイツ人と森

お盆が終わってからしばらくドイツを訪問してきました。忙しいスケジュールの中、時間を縫って念願だった森の幼稚園の視察に伺いました。

メディアで読んだ程度の認識しかなかったのですが、衝撃でした。幼稚園の形態もさることながら、こうした教育を確信的に根付かせていくドイツという国の哲学や思想に圧倒される思いでした。

森の幼稚園は1950年代北欧で発祥し、現在ドイツでもっとも普及している自然幼稚園の総称です(ドイツ全土に1500以上)。園舎で囲まれた敷地や園庭を持たず、豊かな自然環境の中で子どもの自由に任せ、のびのびと遊ばせます。机がない、ピアノがない、日案もカリキュラムもない。幼児教育の「常識」が覆されます。

「指示はしない。森へ入れば子どもは自由に遊ぶ。危ないことはさせないが、任せて見守る」「子どもの自主性を育むためには、子どもと先生の信頼関係が大切」と若い副園長は熱っぽく語ってくれました。

ドイツ人にとって森は、神聖な世界です。環境大国としての森の愛護という精神はもちろんですが、それ以上に「森のノスタルジー」といった郷愁的あるいは自己回帰的な理念や感覚が表象された場として重要な意味を持ちます。昼下がり、森で裸になって日光浴をする人もいれば、一日樹々の下で読書に勤しむ人もいる。逆に森を潰すとか木を切るとか言い出すと、街を挙げて反対デモが起きるそうで、つまり森はドイツ人のアイデンティティであり、精神の拠り所なのです。

だから森の幼稚園は、自然な環境や子どもの自主性とかいった常用語で語る以上に、人は何を発達の根拠とするのか、人生の価値とは何か、といった奥深いところから捉えなければ本当の理解はできない、とも感じました。

 

■文化の差異から学ぶもの

幼稚園から大学まで、ドイツ人は「自主性」を最大に重んじます。ドイツの大学には入試はなく授業料もありません。大学は学生自身の自己判断と責任において学び、考える場所であって、「教えてもらう」学校という通念に当たりません。したがって大学に就職部などもなく、卒業後の仕事は自分で探していかなければなりません。徹底して自主性を重んじているのです。

世界でもリベラル先進国として知られるドイツは、同時に高度な倫理観、価値觀を醸成してきた国です。その背景にはナチズムの統制国家の時代の悪夢もあるだろうし、戦後45年間続いた東西分断の歴史もあります。自由とか何か、自主性とは何かを民族存亡の問題として考えてきた、そういう葛藤と選択の足跡があったからとも感じます。

これは、日本の幼児教育でいう自主性と相当に位相は異なります。教育や学校という概念も違う。それを文化のギャップと言ってしまうのは簡単なのですが、私には、その底地に据えられた哲学・思想といった知的基盤の落差を感じてならないのです。

森の幼稚園では教材はないが、子どもはナイフを使うそうです。切る、削る、刻む。時に怪我をしながら、自然とのつきあい方を学んでいく。幼児にとって自主性とは何か。文化の差異から考え直していくことはたくさんありそうです。