朝の掃除と、無名の人

(2014年04月13日 更新)

 路上の吸い殻が多くなると、春も本番だと、父は言う。84歳になる老父は、門前の掃除を毎朝の日課にしている。門前といっても半端ではない。ちょうど最寄りの交差点から目一杯、幅百メートルのアスファルトを舐めるように掃く。繁華街が多く、あたりにも深夜営業の店が増え、朝7時前の路上は「宴の後」の状態だ。
 たまに私も手伝う。これだけ喫煙人口が減っているというのに、何と日本の喫煙者のマナーの悪さだろう。ものすごい吸い殻の量。呑み捨ての缶飲料、食べ残したコンビニ弁当、カップラーメンの汁が手にかかる。私はイラッとするが、父は黙々と1時間の行を二十数年以上続けておるのである。
 捨て置かれたゴミには名前がない。半分かじったままのチキンは誰のものかわからない。しかし、それを無言で拾って、ゴミ掃除する人もいる。父も無名だ。日曜の朝、いつもよりゆっくり起きた街の人々は、いつもゴミダメの交差点がきれいなことに、小さな発見をするだろう。でも、それが誰によって整えられたのか関心は払わない。
 私が交差点の向こう側を掃いていると、知った顔の若い僧侶がやってきた。平服である。近場で呑んで朝帰り、というような人物ではない。おはようございます。眠そうな顔で挨拶してくれた。
 いま、いのちの電話の帰りなんです。/自殺の相談の? たいへんだね。電話はありましたか。/はい、今日はかなり。以前相談のあった人からも。/どちらも名乗らないのでしょう。/ええ、ま、声聞いたらわかりますけど。でもお互いそこはふれずに。/知らないけど、知っているんだ。そうか。知らない人に支えられているんだね。/ありがたいって向こうの人も言ってくださいます。相談できるのはここだけだって。それだからやっていけるのかな。/お疲れさま。早く帰って、寝なさいよ。
 はい、と眠そうな顔に笑顔を浮かべて、彼は信号の向こうへと帰っていった。その若い僧侶がなぜこの時間、この街を歩いているのか、もちろんだれも知るところではない。
ゴミと電話相談を一緒にしてはいけないが、でも、世界は無名の人たちの思いやりと支えあいで成り立っている。かくも幅広く、かくも奥深く。その無名の人のつつましさに、敬意を忘れてはならない。ふと、そんなことを感じたのである。