日本の教育を考える

(2014年02月08日 更新)

 幼稚園の若い先生へ。
 幼少教育にはしばしば「○○式」と呼ばれるものがあって、そのたびに軽い戸惑いを覚えます。フィンランド式とかインド式…それじゃ、日本式って何なのかな。
 世界中で日本の教育に注目する人たちがいます。中東のUAEアラブ首長国連邦。オイル産油国はどこも、将来の資源枯渇に備え、豊富な資金を投入して「教育立国」を目しています。UAEでもNY州立大学とかMITとかアメリカの名門大学を誘致して、世界の頭脳を育てているとか。まぁ、それはあってもいい話でしょう。
そのUAE首都アブダビにある日本人学校で、2008年から地元の子どもの受け入れを始めたというニュースが目にとまりました。皇太子府から要請があったそうですが、きっかけは日本の小学生の規律や規範教育を報道するテレビ放送だったとか。折り目正しい挨拶、礼儀、しつけ、クラスメートと一緒に掃除をする光景は、日本人の「和の連帯」を感じさせたそうです。心技体を通して、人間形成を掲げてきた日本の「ガッコウ」は、「教育立国」のアラブの人たちからも憧れの的だというのです。
 教育は当然、その国の文化や風土を反映します。フィンランドが優秀だからその
教育が日本で通用するかは別の問題です。逆に日本の教育は固有のものだから、他国では受け入れられないとも限らない。「掃除教育」などは日本独自のものですが、多国籍化の最先端にあるアラブの人々は、それによって育まれる調和力や協調性を評価しているというのです。
 パドマ幼稚園の教育は、強いて言うなら、「日本式」幼児教育だと私は述べてきました。欧米型の「教え込む」知識注入の教育ではなく、師弟がシンクロしながら「滲み込む」伝授型の教育は、日本の教育文化の核心ともいえます。ですが、それだからすぐ「日本式」とラベルを貼ってしまうのは、少し猶予があった方がいいのかもしれません。「○○式」と唱えた瞬間、そうでないものに対し私たちは無関心に陥るし、時には選別的になる危うさもあると思うからです。
 と同時に、私は幼少教育においてこそ、日本のオリジナルをたいせつにしたい。英語教育が大流行りですが、一方でその国のオリジナルを極めることが、いちばんグローバルに近いのかもしれない、と思うからです。礼儀とかしつけ、掃除教育などは外国語に翻訳できないものなのです。
 私は、何が「世界の中の日本」であるのか、当園の教育を通してもう一度考えてみたいし、今リニューアルを計画中の英語教育も、そこを起点に再考しなくてはならないと考えています。