明けましておめでとうございます。
昨年は世界でもいろんなことがありました。特に元首相テロ事件以来、宗教をめぐる話題が強く印象に残っています。
一連の事件から私が強く思うのは、飛躍するようですがお寺と社会との関わり方についてです。
対社会(世俗)とのかかわりにおいて、宗教の立ち位置とは時代を超えて一貫しています。社会とは別の価値軸を持ち、思い込みや通念といったものを問い直す力です。詳しくは書きませんが、例えば幼稚園も含めお寺の教育とは公教育とは別の、独自の思いや実践があって成立するものであって、民間として受託しているわけではないのです。
もちろんお寺も社会の一員であり、法の体系によって位置付けられるものです。それには違いはないのですが、しかし世間並みに景気優先、エリート必勝のようなストーリーに追随していては、独自の存在理由を失うのではないかと思うのです。たまにえらい宗教人が「お寺もビジネスが大事」みたいなことを仰るが、私には違和感があります。
ではお寺は何をすべきなのか、それぞれに考え方があっていいのですが、私たち大蓮寺・應典院は、3つの基本姿勢を持って取り組んでいます。お墓の分譲を例に挙げましょう。
一つは交流。墓地や永代供養墓を分譲して終わりではなく、そこから始まる供養やお寺との交流や関係性こそ大切でしょう。仏様や亡くなった人とのつながりも含め、お寺でしかできない深い取り組みです。グリーフケアは重要です。
二つは教育。怪しい宗教に「洗脳」という言葉が付きまといますが、これはいびつな教育の変形です。宗教の教育はそういう危険性をはらんでいるという自覚を持ちながら、しかし本当の教義をもとに魂に伝わるような教育を目指していきます。
三つは還元。墓地や永代供養墓の分譲で得られた志納金(儲けとか営利ではありません)はその名の通り「志」として大蓮寺を通して社会貢献活動に還元されていきます。應典院の諸活動を支えているのは、そうした「志」の堆積によるものです。
その交流や教育をどういう場として、またプログラムとして進めるのかは、その方法論も重要になってきますが、大前提としてこの3つがなくてお寺の社会的使命の実現はないと思うのです。
春にはコロナが5類になるかもしれません。一気に晴れるわけではないでしょうが、しかし、3年の間に自沈したものをもう一度掘り起こし、再び提起するチャンスがやってくるのではないでしょうか。もちろん以前通りではありません。そこにどういう創意と知恵を込めるのか、お寺の本気度が求められています。
今年は五重ざらいを5月14日開催、6月には法然上人25霊場巡りを、関連のパドマ幼稚園では70周年記念大会を12月に開催します。この一年どうぞよろしくお願いします。