9月の半ば、父が84歳で亡くなってから、私が引き継いだ日課がひとつある。朝の掃除である。
大蓮寺の門前は広い。都会の真ん中なので、土塀に沿った幹線道路では24時間車や人の往来が絶えない。空き缶、コンビニの包装、吸い殻の山……交差点あたりでは、明け方まで続いたのであろう「宴のあと」を清めることになる。
また、境内を囲む樹木の景観はすばらしいのだが、落ち葉や枯れ葉の掃除はとても竹箒では間に合わない。かなりの時間と体力を要するのだが、それを、父は亡くなる寸前までおそらく25年以上、毎日欠かすことなく自分の勤めとしていた。
「では、行ってまいります」
起床の挨拶もそこそこに、家中のゴミ袋を束ねると、薄明かりの中を出かけていく。
門前を掃き、境内を清め、それから墓地へと、父の掃除はたっぷり1時間半を下らない。この頃は、生感覚機能は衰え、言葉も不自由になり、帚を持って動くこともままならないのに、生涯の日課は絶えることがなかった。生きている限り、この仕事は全うする。私にはまるで、孤高の行者のように見えた。
時候のいい時は、お昼近くまでずっと墓にいたりするので、檀家からしばしば報告を受けた。
「先代さん、お墓でお見かけしましたよ、うちのお墓もきれいにしてくださって…」
そうお礼をおっしゃってましたよ、と伝えるのだが、きょとんとして要領を得ない。すでに認知能力が落ちていたので、それが誰なのか、よくわからなかったのだろう。
外出好きな人が、晩年は人嫌いであった。ずいぶん出不精にもなっていたのだが、その理由も同じようなことだろう。気まずくもあり、情けなくもあり、だから父は墓地で檀家の姿を見かけると、避けるように場所を移したという。
自分がやる段になってわかるのだが、掃除とはつくづく理不尽なものである。
空き缶も吸い殻も他人の後始末だし、やってもやっても、きりがない。誰が応援してくれるのでもないし、感謝されるのでもない。しかし、しないではいられないのは、父が奉仕活動として掃除をしていたわけではないからなのだろう。
「きれいやなぁ、見てご覧なさい、何もない」
掃き清められた掃除の跡を眺めては、父はよくつぶやいた。わが働きの軌跡を確かめることは心楽しく、またいつまでも眺めていたかったのだろう。最初は面倒でも、終えてみると清々しさが募ってくる。その気分が忘れられず、飽きもせず、嘆きもせず、また翌朝には門前に出かけていったのだと思う。
ふと、思うのだ。父は、つまり掃除に自分の晩年を重ねていたのではないか。
言葉を失い、関係を失い、次第に有用な機能や役割を失いながら、掃除を通してのみ存在を純化させていったのではないか。檀家のため、園児のため、家族のため……絶えずそう言い聞かせて生き抜いた84年間ではあったが、人生の完成期を迎えて初めて、何者のためでもない、ありのままの自分と向き合う希有な時をそこで育んでいたのではないか。
大蓮寺の墓地は、鬱蒼とした緑と石垣に囲まれた聖地である。風に誘われて樹々が鳴き声をあげて、あとはカサカサと枯れ葉を掃く竹箒の音しか聴こえない。時間が止まったようなこの場所で、無数の石碑の合間を、汗をかきながら父が行き交うのだ。黙々と何かに祈るように。
ふと、こうも思うのである。自然の中に、生き死がある。その間に境目がない。あれは、ひょっとして父の死に支度ではなかったのだろうか。