思いやりをどう耕すか。仏教国ミャンマーの孤児院。

(2015年06月08日 更新)

15年以上前であるが、ミャンマーを訪れたことがある。仏教団体の主催ツアーだったのであちこちの僧院を巡ったのだが、どこもたいへんな数の子どもたちがいて驚いた。格好から見て、沙弥には違いないのだろうが、親を失った子どもたちは小僧になって生き延びるしかないのだと聞いた。仏教国では、それも生存の知恵である。

6月4日の朝日新聞に、ミャンマーの児童福祉施設のことが紹介されていた。内戦や貧困で家族を失った子どもを、宗教、民族の区別なく受け入れる尼僧の話だ。この施設だけで、230人の児童が共同生活をしているという。

 

尼僧の善行にも頭が下がるが、私がいちばん関心を持ったのが、施設の一ヶ月の運営費60万円をすべて市民の寄付に依っているという事実だ。驚いたのだが、「世界寄付指数」では、ミャンマーは米国に並び慈善活動世界一だという。GDP世界155位の国が、である。紙面では、一月に必要な米の4分の1にあたる量を毎月寄付している主婦が紹介されているが、それが、つまり仏教国ならではの「寄付文化」なのだろう。

 

ミャンマーというと、すぐわれわれは寄付の送り先を連想する。大きな額を集めて、学校や病院を寄贈する。自国の福祉制度が弱いから、外国の寄付に頼りっぱなしという定番のイメージができあがる。しかし、社会保障に依存したままの国と、貧者の一燈を分かち合う国と、どちらが寄付大国なのだろう。

公益事業とかCSRとかいう手前に、草の根に根づいた互恵文化があるはずだ。「何とかしてあげたい」「放っておけない」という思いやりを、どう耕し、どう受け入れるのか。ミャンマーだけの話ではない。かつて戦前まで、日本の社会でも寺院や僧侶は同じような役割を果たしていた。「寺院消滅」におののく前に、考えることはたくさんある、と思う。