最近テレビの災害報道で「命」という言葉をよく耳にします。曰く「命を脅かすような危機」「命の危険が迫っている」「自分の命は自分で守ってください」等々。コロナでも異常気象でもしばしば用いられる常套句です。
東日本大震災あたりから意図的に緊迫感を打ち出すようになったようですが、「避難してください」と「自分の命は自分で守れ」ではだいぶニュアンスが異なります。後者にはどこか突き放したような、「自己責任」が強いられているように感じます。私の命は、私が死ぬときに死ぬ。「自己完結」する。つまりその背景には、「命」は自分のもの、所有物とする現代人の考え方がベースにあるのでしょう。
仏教の「いのち」はまったく意味合いが異なります(ですので仏教では「いのち」とひらがな表記します)。
先日ともいき堂である家族の法要を行いました。祖父の納骨式に、孫にあたる中学生の女の子が泣きじゃくっているのが印象的でした。「いつも優しかったおじいちゃん。いつまでも見守っていてね。また会いにきたい」。孫娘は、お骨を収めたサラシにそのようにメッセージを書いていました。
おじいさんの「命」は固有の存在であり、生体が死滅すれば無くなります。しかし、ここではおじいさんの「いのち」は、孫娘を初め家族に引き継がれ、供養され、いつまでも無くなることはありません。「いのち」は忘れられない限り、どこかにありつづけるのです。
ですから、「いのち」はさまざまに語られてきました。自分の「いのち」はまた元素に戻って姿を変えて、次の「いのち」に役立つのであると語られたり、あるいは、死んだ人は、風となったり光となったり、夜の星となったりして、あなたを見守っているのであって、死んではいないのだと、そのように語り続けられてきたのです。
仏教の「いのち」とはつながりであり、連続するものです。家族はもちろんのこと、たとえ家族がなくとも友人やご近所さんなど縁ある人々が、「いのち」を紡いでいきます。そこでは、「自己責任」「自己完結」という考え方はありません。
秋のお彼岸。まだ、コロナの心配は残りますが、それでも「いのち」あることに感謝して、皆でお念仏申しましょう。南無阿弥陀仏。