市民感情で葬送を語ると…

(2014年05月30日 更新)

 葬送の問題を「市民レベル」で語ることはむずかしい。そう感じた集会があった。
 ある国立大学が主催する哲学カフェ「身近な人を葬送するために何が必要ですか?」でのこと。会場には、平日の夜間にもかかわらず50名以上の人が集まった。

 「近年、葬儀のスタイルが変わりつつあり、葬儀は不要とまでは言わないにしても、家族葬や密葬など、できるだけ簡素化する人が増えているようです。お坊さん、お経、戒名、位牌、遺影、礼服、香典、お通夜、お墓、一周忌・・・みなさんがなくてもよいと思うもの、あるいはなくしてはいけないと思うものは何ですか? 対話を通して考えましょう」(当日プログラムから)

 坊さんとか葬儀通の人は抜いて、市民だけで葬儀を語り合おうとする試みは面白い。最近、「葬送市民」ともいうようなNPOの専門家も多いが、いい意味で素人さを前面に出していて、それだからか、フロアの参加者の声も、素朴であるが本質を突いていた。
 だが、やはり無理がある、と感じたのは、私が僧侶だからだろうか。市民に備わる抜き差しならない「近代信仰」のようなものが、議論に見えない縛りを作ってしまうのである。
 「葬儀は負担か」「どこまで簡素化できるか」「葬送に意味があるのか」……言葉は違っても、ベースはどこかの週刊誌の記事と大同小異のように感じた。フロアには若者から高齢者までいろんな人(それもかなり知識層)がいたが、彼らの関心もやはりそこまで止まりなのだろうか。
 近代市民の基本は、合理性や納得性の追求である。コスト感覚に富んでおり、金銭だけでなく、何事にも意味とか効果とかを求める。そして個人の意思決定が大前提でもあるから、習俗なるもの、昔からのならわし、しきたりに「意味がない」と反発するのである。「戒名も読経もなかったけど、廉価で、手作りのお葬式ができた。それが本人の遺志でもあったし、家族皆が納得できたのだからよかった」風の市民的葬送劇が席巻することになる。
 そもそも習俗なるものは、非合理の極みである。儀礼は市民的理解が不可能であるから「形式的」なのであって、概して伝統とはそういうものである。だが正統な継承ができなくなって、伝統もまた知識・情報レベルで解体されていくと、市民にとってもはやしがらみと大差なくなっていく。
 私の違和感の根底にあるものは、葬送の執行者であり、意思決定者である、一人称の自己主張である。葬送が負担であり、無意味であり、簡素化したいと言っているのは、強い私権感情であり、そこに肝心の死者の存在が浮かんでこない。もっといえば、そもそも死者との対話を望むような感情がうかがいにくいのである(この会でも最後になって、「葬送とは、死者との対話の回路ではないか」というような問いがあったのだが、残念ながら時間切れとなった)。
 以前もここに書いたが、死生観に正解はない。風土や歴史、文化や生活の中で、個人間に染み込んでいくものであって、知識として情報として学ぶものでもない。恐らくは、多くは他者を実際に看取り、死者を弔い、延々と対話を重ねた行方(それを供養といってもいい)に、ピタリと自分に嵌まる観念として育まれてくるのであろう。高い安いとか、便利不便とか、意味あり意味なしなど私権によって選別されるものではない。この違和感に起因するものは、死者の不在と同時に、それに対し敬意や畏怖を喪った、世の「市民感情」という奴なのだろうか。
 日本人は死者とともに生きている。死者はものを申さない。だから、(葬送)儀礼が生み出され、われわれ絶えず死者の意向を改めてきた……という、内山節の言葉を噛み締めたい。そういう無為なる存在を、先人は数々の習俗や儀礼という形に凝集してきたのではないのか。
 長くなるので結論を急ぐ。ここで伝統復活を叫ぶつもりはない。また、なぜ市民の意見表明が大事なのか、應典院の活動を通して理解してきたつもりだ。
 なので、大胆に言うなら、「新たな葬送の伝統」をつくるしかないような気がする。ある程度、合理性や納得性を充たしつつ、しかし伝統的な儀礼やならわしは保っていく。例えば、生涯の実務課題(たとえば医療や福祉、葬送など)に対応しながら、ある種の共同体を結縁して、葬送を協同化していくような試みである(この具体的な取り組みは準備中なので、また来月に紹介する)。
 問題の根本は、葬送の伝統やならわしにあるのではない。その責任は、運用側である現代宗教なのだとも思う。