宗教の社会貢献について、大阪大学の稲場圭信氏はこう定義している(『社会貢献する宗教』以下同じ)。
「宗教者、宗教団体、あるいは宗教と関連する文化や思想などが社会の様々な領域における問題の解決に寄与したり、人々の生活の質の維持・向上に寄与したりすること」
その上で、その領域を、緊急災害支援活動。発展途上国支援活動、人権・多文化共生・平和運動、また教育、文化振興、人材育成、さらに宗教的儀礼、行為、救済まで幅広く捉える。3.11直後における弔いの活動も、明らかにそのひとつといえる。実態はともかく、本来、葬式仏教も立派な社会貢献ではないか、と筆者は考える。
稲場氏はもう一方であらゆる宗教が含有する利他主義を取り上げ、それは「社会的共感を呼び起こし、宗教(教化)を超えて利他的な倫理観を社会に伝えていく可能性を持っている」と述べる。宗教の社会貢献というと、華々しい活動を誇る宗教NGOとか特異な寺院がイメージされるが、何をやっているか、どんな組織かという前に、地域社会において助け合い・支えあいの精神を育てる公共的な場としての可能性がずっと高いと評価している。「地道な宗教活動による救済や地域社会づくりが社会貢献と言えないような日本の状況こそ問題」であると指摘している。
既存の寺院の存在が社会貢献の可能性を十分に潜在していながら、それがそのように機能していると見られないのは何故だろう。
「宗教者が地域社会と強い信頼関係を持ち、住民との深い関わりによって人々をつなぐ、そのような土壌があまりない」からだ。簡単に言うと、寺は、開かれていない。それほど潜在力(ソーシャルキャピタルともいっていい)がありながら、地域の問題群とつながっていない。決定的に地域ガバナンスを欠くのである。
「(宗教団体・宗教者が)地域ガバナンスを担う一主体として、市民セクターに登場し、地域的公共性の形成に寄与できる可能性を持っているか、いないのか」(大谷栄一:『地域社会をつくる宗教』以下同じ)
という大きな問いが浮上する。
これは、対地域社会とどういう対話や協働を宗教者が試みるのか、ということだろう。こちらの都合をこちらでしか通用しない言葉で語っていても、協働は成り立たない。むろん相手に迎合しろというのでもない。伝統的な活動を担いつつ、対話や協働の軸として新たな社会的文脈をどう見いだすのかということでもあるだろう(例えば3.11以降、宗教者によって「グリーフ」という言葉が語られたように)。
一方的な社会貢献は押し付けがましい。「『宗教と社会の互恵性』のために、地域社会の中で宗教者たちが市民たちと共に、公共的な役割を果たし、新しいつながりをつくったり、これまでのつながりを結び直すことで」(大谷)宗教の社会貢献は少しずつ成熟していくのではないか。