1月17日付の朝日新聞に「子どもの声は騒音か」という特集があり、識者が声を寄せていました。今どきは保育園建設に地元の反対運動が起きます。既存の園も気を使って窓はしめたまま、子どもを外で遊ばせない、東京都は関連の条例を見直すと聞いています。
世の流れというには看過できない問題がここにはあります。紙面で、評論家の宇野常寛さんがこう言っています。
「〈未来に賭ける〉という考え方が愕然とするほど薄れてしまった状況であるように思います。その考え方は僕たちの社会が成立する最低限のルールのはずなのに」
子どもの声がうるさい、と苦情を寄せるのは、中高年層が多いといいます。自分の環境を平穏に過ごしたいから、それを阻むものはすべて排除していいのでしょうか。「自分の利害を中心に考え」「子どもを社会全体の財産とみなせない」(宇野)ということと同じです。
少子化の社会は、子どもへの寛容性を後退させます。子どもに接する機会が少ないから、子どもが受容できない。発達過程にある子どもを(自分もそうであったはずなのに)許せないのです。何とも世知辛い世の中になったものです。
しかし、嘆いてばかりもいられません。回りを気づかって完全防音の保育園ができたと聞きましたが、そんなことばかりやっていたらいずれ子ども施設はすべて、山奥か地下に潜るしかありません。だいじなことは、子どもという存在を、少しでも地域や社会に対し開示していくことではないでしょうか。
当園の新しい園舎も八分方完成しつつあります。いきなり目に新鮮なのは、玄関エントランスが全面ガラス張りであること、また階段突き当たりは白木のルーバー状になっていて、園内のようすが少しですが窺えることです。
園児が登園する、母子で釈尊絵図の前で合掌する、あるいはルーバーの向こうを子どもたちの姿が駆け巡る。歓声と笑顔が弾けるその場面は、いまや地域社会から失われた、未来からの贈り物です。それは、周囲ではほとんど見かけなくなったからこそ、幼稚園が率先して開いていくべき事柄ではないでしょうか。
子どもを忌避する社会は、やがて子育ての負担感ばかり増やし、際限のない少子化を進めていきます。理想は、多くの人が子育てに参加することですが、それがすぐに無理であれば、せめて子どもへの共感や寛大さを育むことです。学習塾やゲームセンターにたむろする子どもとは違う、本当の子どもの躍動や活気にふれることです。
もちろん幼稚園であればセキュリティには万全の対策を講じなくてはなりません。その上での話ですが、幼稚園が在園児と保護者だけの「特種空間」になってしまわないよう、これからも工夫を凝らしていきたいと考えています。
長年地元に暮らす、ある男性からこんな声を聞きました。
「もう何十年も幼稚園の前を歩いているが、毎朝園児さんがお釈迦さまにご挨拶されていたんですね、感心しました」
今まで見えなかったものが見えるようになる。そして、地域の人々の心も明るくなっていく。新しい園舎にはそんな魅力もあるのです。