大阪ローカルから宗教報道を考える

(2014年05月10日 更新)

 京都で仏教界を取材してきて、このたび大阪本社に転勤となった新聞記者と会った。全国紙の宗教担当の若い記者である。日本仏教の現状を追いかけているようだったが、どうも大阪の仏教は違う印象がする、という。京都の宗教記者クラブにいると、各教団や本山のニュースがまずありきだが、大阪に来るとひとつひとつの寺や坊さんが面白い。組織が後景にあって、手前に仏教者がいきいきと躍動している。そんな印象がある、というのである。
 まぁ、大阪はお寺も中小企業型ですからね、と笑ったのだが、よくわかる。逆に宗教を扱うメディアの関心も、組織から個人へと移ってきたからともいえるだろう。その変化の潮目のような場所が、大阪なのだと思う。
 京都はよくも悪くも不動の世界であって、伝統の世界にどっぷり浸かっている。京都観光の表玄関でもあって、そういう秩序や体制が目新しい変化を避ける。東京は相対化が激し過ぎて、変化を切り取る間もないのかもしれない。いや、個人的な印象だが、冷静な研究者や理論家は大勢いるのだが、東京人はパーソナリティに欠くのかもしれない。情報としての消費も早い。
 大阪には、観光寺院はもとよりメガ寺院が少ない。愛知県についで2番目に寺が多いが(3000ヶ寺以上)、その大半は中小の普通の「まち寺」である。月参りも健在だし、宗派ごとの、また仏教会も活動も活発だ。つまり、それを支える檀信徒とのふだんのつきあいがあるからだろう(月参りの信頼関係は篤い)。
 また、大阪は「病める大都市」である。教育、医療、貧困、孤立等々、自慢できたことではないがいわゆる都市問題が噴出している。だからそれだけ、自分たちで何とかしようとする「民度」が高い。そういう地の活動と連携する仏教者も多い。促されるのである。
 葬儀社の激戦地であることも影響しているだろうし、しかしいきなり直葬に流れるというようなこともなく、葬送についてはまだまだ伝統的な形式を保っている土地柄という事情もある。ベースが安定しているから、躍動できるのだ。
 そういった様々が素地となって、異能の仏教者が登場するのである。一々名前は挙げないが、バーを始めた僧侶、ホームレス支援の僧侶、ビハーラ活動や国際協力や、私が見て来たこの30年くらいを鳥瞰しても、「オモロイ坊さん」は圧倒的に大阪に多い。同時に、大阪のメディア(主に新聞)の記者たちが、そういった活動をていねいに掬い上げて、伝えてきた共振関係もあるのだろう。
 しかし、と私は件の記者さんにも言ったのだが、やはり日本のメディアは東京を中心に回っていて、飽きもせずにテレビや週刊誌は「仏教とカネ」を報じ続ける。高額な葬儀、儲ける宗教法人…それがさも全国ニュースのよう報じられ、ネガティブな仏教イメージができあがっていく。それから見れば、大阪発の報道など所詮ローカルな際物に過ぎない。
 葬送をはじめ仏事はきわめてローカルな営みだ。だから、大阪らしいローカル仏教があってしかるべきなのだが、今の日本のメディアの構造はそれを許さない。ならば、大阪のメディア、記者たちよ、東京に向けて撃つような、もうひとつの日本仏教を書いてみないか。