アフター5、あなたはどこに行くのだろうか。同僚と居酒屋も向かう人もいれば、定例の勉強会に参加する人もあるだろう。しかし、仕事が終わってから自作の詩を詠む人は少ないのではないか。應典院の「詩の学校」である。
詩の学校について以前も書いた。詩人の上田假奈代さんが「詩という字は言偏に寺と書く」からと、應典院を会場にしてもう10年以上続く。
15、6人の参加者は30代以上、何人かのスーツの男性が床にあぐらをかいて詩を書いている光景は、何というか爽快でさえある。都市の片隅で、こんな夜更けに、さまざまな声を溶け合わす場所がある。誰も知らない。誰もふりむかないが、何とゆたかな時間だろう。
今日の詩作は、「声」がテーマだった。初老の男性がこんな言葉を綴るのである。
「たどりつかない光明の道
蓮華の花へ手をのばす
私の声は
黄泉の国からの声とひびき
私を導く手となって
私を導く 光明の道へ」
本堂が会場だから、ことさら宗教を意識しているのではない。そもそも詩を詠むこと自体が宗教なのだ。
私の中にまだ知らない未知の声が眠っている。職場でも学校でも聞こえてこない、家族や恋人と交わす声とは異質の声。それは誰にでも潜在するものだが、それを気づかせる他者や場と巡りあうかどうかは、その人の生き方と関連しているように思う。
上田さんはこう声を詠む。
「呼ぶ声
呼ばれる声
世界に存在するために
呼びかけられる声」
請われもしないのに会場で礼讃を称えながら、私は思うのである。念仏も同じ、と。いや、そうあるために私に何ができるのかと、また原初の思いに戻るのである。