満中陰の日、父親の遺骨を、墓に納骨する段になって、ふたりの姉妹と母親が泣き崩れた。無理もない。数時間前まで元気だった父が、心臓発作で急死したのである。「未だに信じられない」「お骨を埋葬する気になれない」……虚ろだった姉妹を説得して納骨に運んだのだが、その墓前で女3人が遺骨を抱きしめるようにして嗚咽するのだ。
姉妹は嫁いでおり、父の姓は途絶えるのだが、姉は毅然として私に言うのである。
「父を引き継いで、うちの家でお墓を守っていきます。主人も理解してくれています」
今年は「墓じまい」がすっかり定着した年ではなかったか。東京のメディアが煽動して、地方の実態を侵犯するという形には驚かなくなったが、住職たちの意識を遥かに凌いで、効率化は促進されている。直系の息子がいても、墓じまいを急ぐ人は珍しくない。家墓を「負の遺産」と考える人もいるだろう。もう現代人は、世代を超えて死者との関係を紡ぐような時間感覚を持ち得ないのだろうか。
そうなると死者は居場所を失う。
「散骨・自然葬」や「樹木葬」ではすでに死者の固定化された居場所(墓)が喪失されている現状から、東北大学の佐藤弘夫は「可視化された儀礼だけでなく、その背後にある世界観・死生観そのものが大きな変容のプロセスに突入して」いて、「墓地を媒介とする生者と死者の交渉という常識がいま転換期にさしかかっている」と書いている(月刊住職1月号)。死者はすでに墓地から離脱しているのである。
なぜ「墓じまい」を急ぐのか。家の縮小とか家族の多様化(LGBTや夫婦別姓とかも含め)が進めば、家墓はもたなくなるが、それだけが「墓」の軽視・拒否の要因なのだろうか。佐藤も書いているが、私は最大の理由のひとつは、死のリアリティが失われてきたからだと思う。もっと率直にいえば、死への尊厳や悲嘆、畏怖のような感覚が途絶えつつあるからではないか。
日本人のコミュニティは生者と死者が共存している、と考えられてきたが、突然の災厄を除けば、われわれは日常において死者を見ることもふれることもない。大勢の死亡者はいるが、その看取りや弔いの場面においては、無数のサービスや制度に囲まれたまま直接体験として受け止めにくい。生と死が重なり合う、糊しろのような時間や場所も、いまは終活の名のもとに効率化されていく。確かに身近な人の死ではあっても、どこかひと事のように対象化されていないだろうか。
冒頭の姉妹は、晒し袋から父親の骨片を取り出し、軽く口に含んだ。骨噛みだ。俗習だと侮ることより、私はその死者への思いの激情に胸をつかれたのである。
一年の暮れになると、寺は墓参りの車がひっきりなしに出入りしている。お盆と年の瀬は、大蓮寺の墓域は新しい供花で一面埋め尽くされる。その色の鮮やかさを見ている限り、死者の離脱を危機的に感じることはない。
だが、早晩そういう意識が水面下から湧いて来るとしたら、私たち寺の人間は何をすべきなのだろうか。「生と死が重なりあう」希有な場所として、寺はどのような声を絞り出すべきなのだろうか。「墓じまい」を憂えている場合ではない、と思う。