作家の池澤夏樹が震災5年を間近に、「利他に向かう社会 幻想か」とコメントを寄せていた(日経新聞3月1日)。あの日以来、世の中は変わるのではないかという思いがあったが、結局すべて元に戻ってしまった、社会をよりよくしたいというあの雰囲気は結局、災害時だけのユートピア幻想にすぎなかったのか…というような発言である。
半ば肯首するが、どっこいそうでもないと踏ん張りたい。この5年、日本の宗教は劇的に変化しつつあるように思う。その極点に立つのが、臨床宗教師のうねりである。
2月末に龍谷大学で日本臨床宗教師会の設立シンポジウムを覗いてきた。会場は200名を超え、立錐の余地がなく、そこかしこに法衣を纏った僧侶、神官、新宗教の教師らが多く見受けられたのがたいそう目を引いた。
以前も書いたが、この横断的な組織はつまるところ東北大学を中心とした宗教大学の教育連携である。上智大学、龍谷大学、愛知学院大学、高野山大学、種智院大学、鶴見大学、武蔵野大学が登壇して、臨床宗教師養成について取り組みを発表した。震災翌年に東北大学で寄付講座が開設されて、わずか5年である。画期といってしかるべきだろう。
應典院で「アートのアウトリーチ」を研究していたことがある。劇場や美術館といった守られた(専門)空間に住み着いたアートを、一度外の社会へつないでいく。90年代後半から、アートマネジメントという考え方とセットになって、数々のアーティストが地域や社会へ出かけていった。それまで高尚な趣味か、投機の対象であったアートが、教育、福祉、まちづくりと協働を進めたのだ。ふと思うのだが、臨床宗教師を「宗教のアウトリーチ」といってはいけないだろうか。外部に照らしながら、宗教の実態を相対化するのである。
外部はこちらの宗派や寺歴などに関心はない。あなたは何者か、ここ(臨床)であなたにできることは何か。問われるのはそれだけだ。ただ個人の意識と能力だけを求められるのである。その責任感とプレッシャーに(潰されつつも)、存在の強度は鍛えられるはずだ。
当日は各地の臨床宗教師を代表して、若い禅僧が挨拶に立って、「宗教者としての誇りとは何かを見つけていきたい」と述べた。それは、臨床で上手に立ち回るテクニックを言うのではない。寺を出て、いわゆる説教の言葉を封じ、「場違い」とも思える臨床にあって、なお宗教者であるという自明性をどのように醸し出すのか。彼らが生み出す場と関係性の数々に、注目をしていきたいと思う。
また付け加えるなら、こういったアウトサーダー的動態を、インサイダーがどのように捉え直すのか、あるいは呼応するのか、そこに日本の宗教の深度が図られるように思う。
冒頭の池澤の言葉に戻る。現在も社会をよくしたいと思わない人はいないはずだが、あるとすればそれを使命や役割意識、あるいは職能のレベルで保持できる人材層がこの国は乏しいということだろう。「利他」とは仏教の言葉である。宗教者が利他に向かう社会にどう貢献できるのか、そのための人材とはどういうキャリアを有するのか、それを問い続ける場所として臨床宗教師は多くの潜在力を孕んでいる。