■衝撃のウクライナ侵攻
2月24日、突如としてロシアのウクライナ侵攻が始まりました。唖然としました。21世紀の現代に、こんなことが起きるとは誰が予想したでしょうか。
その後も戦禍は凄惨を極め、破壊や殺戮が相次ぎました。メディアを駆使した情報戦、あるいは国家や民間企業まで巻き込んだ「経済戦争」の様相まで呈し、両国だけでなく世界中を巻き込むことになりました。ロシア正教会とウクライナ正教会の対立もありますから、宗教戦争であるとも言えるでしょう。
欧米一辺倒の価値軸に対する異議申し立てというような声も聞こえてきます。それならば、戦争より遥かに偉大な力をもつ独自の芸術文化があるというのに、愚かな権力者にはそれこそ価値がわからないのでしょうか。まことに残念なことです。ドストエフスキーもチャイコフスキーも、世界から名声を得ながら、この戦争の汚名を被らなければならないのですから。
■殺戮に正義はない
浄土教『仏説無量寿経』には、「兵戈無用(ひょうがむゆう)」という言葉が出てきます。兵隊も武器も用いる必要がないという意味です。
釈尊の時代にも戦争はありました。人が人を傷つけ、武器を持って殺しあうのは人間の最も愚かな行為でありながら、絶えることがない。そのような人間の有様のただ中で、釈尊の世の祈りを示す言葉として伝えられてきました。
それから2700年経った今も、戦争はなくなりません。今回も多くの命が奪われ、また今も奪われ続けています。「正義」を振りかざし、「兵戈」を用い、殺戮が正当化されていく。歴史上多くの戦争が「自ら正義あり」として行われてきましたが、殺戮することに冠せられる「正義」というものはありません。やはり、兵隊はいらない、武器はいらないのです。
連日、テレビでは悲惨な戦地の画像を流し続けます。やがてそれに慣れっこになってしまうと、不感症になってしまうかもしれない。原点を見つめ続けましょう。大事なことは最新の戦況を知ることではないのです。今一度、「兵戈無用」を確かめながら、兵隊も武器もない世界の平和を願うことではないでしょうか。