共助と利他。熊本地震に思うこと。

(2016年05月23日 更新)

熊本で大きな地震がありました。日本は天変地異が多発する災害国、心の落ち着く日がありません。

同時に、いち早く被災地支援のために行動を起こす人々がいます。

私の友人である八尾市の製紙会社の社長は、東日本大震災の救援活動中に、不自由な避難所生活を見かねて、自社の紙製ベッドを試作、このたびの被災地では「段ボールベッド」として多くの苦境を救っていました。また、若い僧侶たちは翌日には駅前で救援募金の托鉢に出ていましたし、多くの学校では(僭越ですがパドマ幼稚園でも)翌週には募金活動が始まっていました。災害慣れといえばそうかもしれません。でも、確実に災後の動きは、迅速にかつ的確になりつつあります。

地震は逃れることはできません。事前の避難も難しい。だから、起きてしまった直後から何ができるのか、人々はその後のありかたに思いを馳せるのでしょう。義援金はその最たるものですが、何がどこで必要とされているのか、刻々と変化する被災地の状況に応じた支援が不可欠となります。支援には被災地を思いやる想像力を伴うのです。 

震災のたびに、「共助の精神」が言われます。「自助」「公助」もだいじですが、結局いのちの危機を救うものは家族や隣近所の助け合いです。いや、こんな事態だからこそ、熊本から遠く離れた私たちも、貧者の一灯を捧げることで、共助の輪を拡げていくのでしょう。困ったときはお互いさま。それは決して哀れみの感情ではなく、悲しみや痛みから生起した人間の善行であると思います。

大乗仏教の眼目のひとつは、「利他行」です。利他とは、自分よりも他者の利益を優先すること。その実践こそ自分の幸せであると考えます。だからこその共助でしょう。

悲惨な状況の中で、日本人のこころが問われています。