信心は、負けない 変化の先にある絆。

(2025年11月28日 更新)

近年、「墓じまい」「仏壇じまい」という言葉がよく聞かれるようになりました。供養を縮小することがあたかも風潮の如く語られがちですが、大蓮寺の檀家さんと日々接していると、信心は今も静かに、そして確かに次の世代へと受け継がれていることを心強く感じる場面が少なくありません。

秋深まった頃、東京への転居にあたり仏壇を移された檀家さんのお宅を訪ねました。大阪の旧宅にあった仏壇を、ご両親のご逝去を機に、新宅に迎えられて、この日は開眼式(魂いれ)を行うのが目的でした。
私の勝手な都合で、平日の夕方近くという変則的な時間にもかかわらず、ご夫婦と娘さんお二人が揃って迎えてくださり、厳粛かつ温かい法要となりました。若い娘さん方が、ご両親に倣ってお念仏を唱えておられる姿が印象的でした。
長く単身赴任で「仏壇のない暮らし」をされてきたご主人は、式後に「20数年ぶりに自分の住まいにやっとお仏壇を迎えられて、ほっとしています」と語られました。切なる思いが伝わってきて、私自身、胸が熱くなる思いがしました。

また、別の日には、寺での法要の主宰者であるご主人がインフルエンザに罹患され、急遽参列できなくなったご一家がありました。延期も考えられるところですが、ご主人は「自分はオンラインで参列する」と申し出られ、LINE電話を使って法要から法話まで約40分間、画面越しの参詣となりました。スマホを三脚に据えたり、またその後の墓回向では移動カメラのように操作する若い息子さんの姿は、父と子の信頼の絆を映すようで、大変微笑ましく感じられたのでした。

信心は、自意識の発露というより、周囲とのかかわりや環境の中から立ち上がっていくものです。仏壇、お墓、年回法要等々、こうした仏事の営みを通して、各々の信心の分厚い表層が浮き上がってくるのです。
今の時代、ご供養を続けることがご負担になる場合もあるかもしれません。しかし、それがいろんな忖度となって、「迷惑をかけたくないから」、大切な心の習慣を途絶えさせてしまうのだとしたら、もったいないことではないでしょうか。仏壇のある暮らし、法要でつながる家族の絆などからは、見かけだけではない、安穏や無事、おかげやご恩に生きる、そういう成熟した人生の深まりを感じます。

家族が縮小し多様化する時代にあって、昔通りの供養の形は難しくなっていくのでしょう。変化の時代であっても、大切なのは、どのような形であれ「引き受け、継続しようとする姿勢」ではないでしょうか。お寺の役割も小さくありません。前例が当たり前、ではなく、それぞれの事情に応じながら、どのように信心を温め、またつないでいくのか、ともに考えることのできるお寺でありたいと願います。
あのコロナ禍にあっても、ご法事を絶やすまいと工夫を凝らされたご家族が数多くおられました。非常事態ではありましたが、だからこその信心の継続がありました。
前述のオンライン参列でそのことを思い出し、画面越しのご主人に感謝をお伝えすると、こう力強く返されたのでした。
「信心は、感染症に負けません」
なるほど、感服しました。
どうぞ心穏やかな日々をお過ごしください。南無阿弥陀仏。