余白なき展示。9.11ミュージアムに思うこと

(2014年09月11日 更新)

ダークツーリズムに関心が寄せられる今、人類の負の遺産をどう後世に伝えるか、ミュージアムの新たな役割が注目される。戦争を題材にしたものに有名な施設が多い。ホロコースト記念館、原爆資料館もしかり、ピースおおさかもその一つに入れていい。
今年5月にオープンした「9.11ミュージアム」を観に行った。ニューヨークのグランドゼロの巨大なプールに挟まれるようにして立つ。総額714億円という巨大かつ「贅沢な」施設に圧倒される。国立だが資金難で、入場料2500円を徴集しないと収支が取れないという。
入り口には爆風で折れ曲がったトレードセンターの巨大な柱がそびえ、館内は熱で溶けた消防車から、血のりのついたハンカチ(救出と求めるため80階から投げられた)まで、悲惨な状況をありのまま「再現」している。不謹慎だが、その展示法は最新のテクノロジーを駆使して見るべきものがある。救出された人々が、「その時」どこで何を目撃していたかを、リアルタイムで伝える手法は、ナラティブの今日的精緻といっていい。
しかし、どうしても違和感が残るのはなぜだろう。国立の施設らしくブッシュをはじめ権力者が登場する映画を見せられる。実行犯やアルカイーダのコーナーもあり、扇情的な面も否めない。日本人の私が是非を判断することは難しいが、違和感はそれだからではない。
余白がないのだ。現代建築とデザインの「粋を尽くした」展示は、こちら側が思案したり、躊躇したり、反芻するような「感情の余白」を与えない。館内構成はハリウッド映画のように「よくできていて」、展示物は現代アートのように「洗練されている」のだ。
見てみたいが見てはならぬもの、見えかけているがある部分は潜められている、あとは一人一人の想像力に委ねるような、そういう「秘められたまなざし」がない。膨大な物証と証言によって事実を再現することに異論を挟む余地はないのだが、それが一方でわれわれの「視覚の欲望」を充たしているということにも自覚的であるべきではないか。
歴史は、映画館ではない。市民一人一人が歴史の当事者であって、鑑賞者におちぶれてはならない、と思う。今日は12年目の9.11。

http://www.dailysunny.com/2014/03/26/nynews0326-8/