会社の供養会。しぶとく生き残る「社縁」

(2019年09月18日 更新)
毎年、某百貨店の大阪支店の供養会を勤めている。今は郊外に移転したが、戦前まで大蓮寺の大壇那で、従業員のための授戒会もあったという。その頃から、毎年従業員の物故者を、その年ごとに供養する。今日は平成30年以降亡くなった13名の御霊を祀った。ほとんどは80歳を超えた方々である。
家族の参詣はない。会長を筆頭に社長、重役陣、総務とあくまで会社行事として行われるのだが、血縁なき現代において「社縁」の根深さに改めて感じ入る。

無縁仏が急増している。政令市では大阪市が全国一で9名に一人が引き取り手のないまま処理されていく。「弔われる権利」と叫んでも、相続人が拒めば遺骨は収まり所を失い漂流するしかない。供養もまた同じである。
なんとか知人・友人が供養を続けてくれたとしても、十年二十年すれば忘れられていく。その人のかけがえのない人生が消失していくのである。
大阪支店の過去帳には戦前から物故者の名前が並んでいる。昔の戒名は院号が多いが、近年は戒名なし俗名のままという人も多い。家族のある人、単身者、それぞれだろう。それでもここにいた人々かかつて等しく、昭和から平成にかけて消費の最前線で活躍していたことは明確に記憶されていく。会社のある限り、供養は継続されていく。

「社縁」を過去の遺物のように語ってきたが、しぶとく生き残る「会社のつながり」は、この時代にある意味稀なる縁となるのではないか。