本年最大の行事である五重相伝会の開催が、あと3ヶ月と迫りました。現在受者申し込み40名を超え、また執持のお寺様との打ち合わせも始まりました。大舞台に身が引き締まります。
五重相伝について、これまでも説明してきましたが、今回は、自分の終末期との関連から述べておきたいと思います。
厚労省は今「人生会議」といって、最期の往き方(逝き方)について家族と医療者と十分に話し合い、本人の意思表示を明らかにすることを推奨しています。多死社会となり、また生の質のみならず、死の質(クオリティ・オブ・ダイイング)について関心も高まってきました。そうなると病院か在宅か、延命か緩和ケアかなど、生死に関わる重大な判断が必要となるわけですが、そこが曖昧なまま棚上げされてきた現実があります。
「人生会議」とは、よりよい最期を迎えるに際し、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取り組みのこと。
やがてこれも臨床の現場では当たり前のことになるでしょうが、留意しなくてはならないことは、それが決して医療者から「迫られる」「強いられる」ものであってはならないという点です。本人の意思の絶対尊重が大原則なのですが、さて、その意思とは医療者や家族と「人生会議」(対話)すれば確定されるものなのでしょうか。
「人生会議」は治療方針を議論する場ではありません。そもそも医療者だからというだけで、本人の生き死にに対し踏み込む権利があると考えること自体、いささか不遜なのではないでしょうか。死生観とよばれる心の深層にある物語は、終末期だ、在宅医療などという短い期間でとても語り尽くせるものではないし、その相手が白衣のドクターであれば安心とも限らないと思うのです。
また、繰り返しますが、「本人の生前の意思表示」が絶対原則であるものの、では本人は老境となれば死生観なるものを確立しうるのか、いや、それも失礼ながらあまり考えたこともない方が少なくないのではないでしょうか。死生観形成にはまず本人の人生観があり、また歴史や文化、教育などが深くかかわっているのであり、それは非常に長い本人の経験と学習、また思索が積み重なって生まれてくるものと思います。宗教とのふれあいもそうでしょう。
日本人は多くは亡者回向を通して、死生観を養ってきました。亡者とは身近なご先祖様であり、先祖祭祀はある連続性(彼岸、お盆または年回法要など)をもって自身の死生のあり方にも影響を与えてきたと思います。医療科学のように合理的理解のできるものではないが、そこには確かにその人だけのナラティブ(物語的)な納得や諒解があったのではないでしょうか。
五重相伝では「往生」という、日本人にとって最もスタンダードな「死生観」を学びます。
たちまちのうちに信心を確立せよ、とは言いません。しかし、それが、これからの人生において「本人の意思表示」の大きな拠り所としていただければ、住職としてこれ以上の幸いはありません。