一人称の死を、準備するために。「おてら終活祭」を開催します。

(2018年08月30日 更新)

 7月から應典院にて終活カフェを毎月開催していますが、毎回大勢の参加者があり、関心の大きさを感じています。終活ブームの大きな要因が無縁化です。人は一人で死ねないし、弔われないのですが、それをサポートする関係が希薄となり、誰もが死後の不安を感じているのだと思います。

 むろん檀家さんには現在の家の継承が大切なことですが、次の世代が婚姻して嫡男を育てというような、これまで同様の家族形態を維持するとは限りません。そういった社会の変化をかい潜るように、あれこれビジネスが参入して、終活産業という市場ができています。それは人助けのように見えながら、実はお金儲けの具になっているのではないか、私たちも肝心のことを棚上げして、安い高い、便利不便と、消費者として自分の死後を「買っている」のに過ぎないのではないでしょうか。
 
 しかし、終活という言葉を役所が使用するほど一般的になってきた今、批判だけでなく、それを寺としてしっかり受け止める必要があると考えます。

 終活はどこまでも一人称の死にこだわるものですが、それは一面自己の死生観との出会いを予期させるものになり得ると感じています。お寺には葬儀と墓という二つの「伝統資源」があります。日本人は長くそういった葬送文化を基盤として、死生観を形成してきました。昔は親の葬儀で初めて立ち会ったことが、今は「前倒し」になっているのでしょう。

 十分な説明と納得があれば、お寺の伝統にこそ信頼を置いていただく方は大勢いらっしゃいます。いや、お寺こそ自信を持って、また率直に伝統の資源を語っていくべきではないか。そんな思いを胸に、仲間の僧侶たちと9月25・26日に「おてら終活祭」を開催します。ぜひご来場ください。