大蓮寺ではたくさんの永代供養墓のご縁をいただいていますが、僭越ながら、ですが、そのご縁づくりは、一種の「教育関係」でないかと感じます。相手の方の多くは供養の習慣や心得(供養文化)についてはほとんどご存知ありません。お寺として、基本的な作法や知識をお伝えするのも大事な役目と自覚しています。「知らなかった」「初めて教えてもらった」と喜ばれることもあります。
違う言い方をすると、永代供養墓を求める人々は「学び」になり得ると思います。供養という経験を得て、初めて遺族という学習者になるのではないでしょうか。そこに、専門職として僧侶の介入はとても大事かと思います。
話は変わりますが、先週、N H Kの「あさイチ」で定番の当世お墓事情の番組がありました。
最新の樹木葬や花壇葬や、新手の森林葬などバラエティに富んだ紹介でしたが、そこで案内役の石材店の担当者が「(こうした新奇なお墓は)お客様のニーズがたいへん高い」とコメントしているのが気になりました。お墓を求める動機は、「ニーズ」なんでしょうか。
お墓を「商品」としてみた場合、ニーズはあって当然なのかもしれません。供養は販売のためのモチベーションであって、購入者であるお客様本位になる。消費者は選択権を持つので、作法とか、規範とか、そういうややこしいものに対し謙虚になり得ません。便利である、安価であるとか、デザインが気に入ったとか、つまり自己の嗜好性が「ニーズ」となり変わるのでしょう。
お墓の制度が壊れ、「自由化」が進んだ弔いの世界だから、いっそう個別の経験や学習が大事かと思うのですが、テレビではそんな「絵にならない」内容は取り扱わないのでしょう。
こんなところで、そもそも論を持ち出しても始まりません。供養文化など、もうないものとされているのかもしれない。ならばこそ、お寺の永代供養墓において、私たち宗教者が介在するという意味を強く自覚しておきたいと思います。
なぜご供養が大切なのか、お相手に対し、それを尊い経験として客観化し、そこから学びへと動機づけることが、僧侶の役割なのかと思います。