「タイパ」という言葉をご存知でしょうか。「タイム・パフォーマンス」の略語で、時間を効率よく使うことをいうそうですが、これがテレビドラマの早送り視聴のことだとは知りませんでした。
最近読んだベストセラー「映画を早送りで観る人たち」(稲田豊史著)によると、若い世代では配信ドラマや映画の倍速視聴、10秒飛ばしが日常で、しかも連続ドラマは最後のエピソードを見て(面白ければ)最初から「見直す」そうです。結末がわかっていれば安心できるからと言いますが、正直なところ昭和世代にはついていけないところがあります。
映画ファンを自認する私としては、映画を早送りで見るならそれは映画を「鑑賞」とは言えない。「消費」あるいは「摂取」しているようなもので、もはや芸術とか文化といわれるものにも値しない、と少々憤慨したりするのですが、これもまた新時代の情報との付き合い方なのでしょう。テレビ画面はテロップにあふれ、分かりやすさを訴求しているし、衣類も食事も、私たちのライフスタイルも、「ファスト」に埋め尽くされているのです。何事もタイパ優先なのです。
いきなり話が変わるようですが、ここでご先祖様の年回法要(法事)の時間感覚を考えてみましょう。亡くなってから一周忌、三回忌、七回忌、三と七が続き、三十三回忌で弔いあげとなります。その後、それまで供養していた魂は仏様となり、ご先祖様の霊として習合されます。32年も経てば、次世代も成長し、家族の様子も変化していることでしょう。言い方を変えれば、かくも長きにわたり故人の供養を続けられたこと自体が、家族という長いつながりのかけがえのなさ、ありがたさを表しているのでしょう。大蓮寺の檀信徒の中には、五十回忌を勤める方もあるほどです。
こうしたご法事が、少子化や多様化とともに現在減少傾向にあるには確かですが、早送りの対象にはなりません。ご法事での住職のお経は30分程度ですが、それでも意味のわからない読経をじっとして聞いているのは単調なのかもしれませんが、それはそれで異質の時間体験なのです。意味とかストーリーを求めるのではなく、長い時間をかけて、御仏と、故人と、自己のつながりに想いを馳せてみるのです。それは理解というより、想像力に類するものでしょう。
大蓮寺は創建して470年の歴史を持ちます。大抵のお寺は数百年の歴史を持ち、同じ場所で同じ地域や家族とともに存在してきました。そこで流れる時間は、自分が好きにコントロールできる消費時間ではなく、圧倒的な大自然の中で育まれてきたようないのちの時間であって、年回法要はいわばそういった異質の時間にふれて、他者とのつながりに気づく、自己をリフレッシュする、そんな効果を持つのではないでしょうか。
ハラハラドキドキのストーリー展開はありません。しかし、読経あり、法話あり、墓参りあり、そして親戚との再会や孫たちの笑い声も含め、そこには倍速不可の濃厚な時間があります。消費時間に対し、いのちの物語時間といえましょうか。
連続ドラマの結末から見て安心するのも否定はしません。しかし、本当の安心は、自我を少しだけ棚上げして、そんないのちの物語にどっぷりと浸かることから得られるのではないか、と思うのです。