家族葬専門の葬儀会館に行った。築後3年と新しく、しかも一日一組しか取らない方針だとかで、スタッフも余裕がある。動きが穏やかに感じる。空間も時間もゆとりがあったほうが、お葬式はよくなる。
家族は15名ほど。六十代の娘ふたりに若い孫たち。見送った母は90歳を過ぎていて、最後は好きな絵を描いて過ごし、自分らしい人生を全うした。だから、空気はむしろ満足感がつよい。
葬儀が終わって、出棺準備に入る。過剰なほどの花で棺を埋め尽くす場面だ。20代の孫娘ふたりがスマホでおばあちゃんを撮りはじめる。ムービーかもしれない。携帯をもったまま、棺の回りを動く。出棺前に立ち会う私は、いつもの違和感とはちょっと異なる感覚を抱いていた。
以前ブログで、棺の中の死者を写メールで撮る不謹慎を書いたことがある。死者を情報の断片に閉じ込める感性を私は肯首することはできないし、ましてそれを拡散する行為を嫌悪する。そう書いたのだが、この日は印象が違った。
祖母の寝顔が格別に美しかったこともある。大正から昭和を生き抜いたモダンな女性。絵を描き、歌を歌い、何かを表現してきた人。そういう人は、撮られることにも寛容であるのかもしれない。
若い孫娘たちがごく自然にスマホを操作していたこともあるのだろう。大仰に構えるのでもなく、妙に臆するのでもなく、今日のおばあちゃんをスケッチする。絵筆がたまたま携帯に変わっただけのかもしれない。
好印象だったのではない。やはり私のような世代には、お別れにスマホは受け入れ難い。だが、頭ごなしに全否定するより、そういう若い人の品位や敬畏の念に少しは期待してもいいのかもしれない。死者と生者をつなぐものがかつて「詩」であったとすれば、スマホ世代のあの子たちには、それが画像だとか動画だったりするのだろうから。
「これ、わたしの大好きなおばあちゃん」
かくして、まるでLineのスタンプのように、かわいい死者の寝顔が拡散していく??
死者への想像力は奪われ、逆にかつてなかったほどの親近感が深まっていく。それが、若い人たちの死者像をつくっていくのか、いわゆるデジタルディバイスなのか、私には答えようはないのである。