グリーフやスピリチュアリティという言葉はかなり浸透しましたが、「サファリング」という用語に初めて出会いました。今日、ご一緒に対談した浮ヶ谷幸代先生からの学び(著書「苦悩とケアの人類学」)です。
サファリングとはストレートに「苦悩」という訳語が当てられますが、医療人類学では「病や障がい、生活上の問題を抱えながら生きる人の経験を形づくる生の根源的な営みとしての感情や情動」という概念を指します。短く言えば、「とことん苦しみ尽くすこと」であり、なおそこから「生きることの意味を見出す」態度や行動を「サファリングの創造性」というそうです。私は充分理解できておりませんが、そこでいう「ケア」は福祉ケアとかグリーフケアとかいう対人的なもの局面的なものと次元が異なるようにも思えます。
應典院再建のころ、「生きづらさ」「喪失感」を抱えた若者たちがいました。貧病争という課題化されたものとは異種の「苦悩」がありました。個別的に、対処療法的にケアできない、不安とか葛藤のような苦悩をどうケアするのか。應典院の場合、それが演劇であり、美術といった表現活動であったと思います。自己と他者の関係を拠り所に、世界に開かれた回路を辿りながら、彼らは自らを(関係論的に)ケアしていったのではないか。成果としての作品も大切ですが、もっとも重要なものは、表現するプロセスの中で生起する苦悩と、そこからの回復なのだと思います。
もう一つ付け加えれば、「ケアする/される」二者関係を超えた、(如来や死者といった)超越的な存在によって包摂されていくという、寺の「場の力」が見落とせないでしょう。浮ヶ谷先生は「場所がケアを生み出し、ケアが場所化される」と述べられていますが、それに近いと思います。
「ケア実践を、個人対個人の関係を越えて、人が集合する場や人が生活の場を共にするコミュニティとの関係として捉えることで、より広がりのあるケア概念を明らかにする」
それがコミュニティケアの原点であるでしょうし、地域に根付いたお寺の「場のケア/ケアの場」の意味が示唆されていると思います。大蓮寺の「お寺の終活」もそういうケアを目指しています。
写真は中央浮ヶ谷幸代先生、左が弓山達也先生と。