ワクチンが徐々に始まって、なんとか希望の兆しが見えたというのに、まだお葬式の現場では感染者のご遺骨について忌避感情が強いようです。火葬では100度以上の高温に晒されるので、「遺骨から感染はない」(厚労省ガイドライン)のですが、火葬場も葬儀社も警戒心をぬぐえません。誰か遺族の一人でも不安を口にすれば、最大公約数的に「万一の策」を取らざるを得ないのでしょう。
感染者のご遺体はまだ感染対策の範疇にあるのかもしれませんが、焼骨になってさえ忌避感情がなくならないことに驚きを感じます。非難するつもりはありませんが、故人の尊厳や遺族の権利がいささかおざなりになっていないでしょうか。遺族が立ち会えない場合、後刻葬儀社が自宅にお骨を届けに来るそうですが、「故人のように思えない」という声もわかるような気がします。
遺族の喪失感あるいは「何もしてやれなかった」という自罰的な感情を、どうやって支えていけばいいのでしょうか。
収骨に限らず、葬儀というプロセスは、大切な人を喪った事実を受け入れていくグリーフワーク(悲嘆の作業)です。感染対策のレベルから、悲しみの露出や受容というステージに移行するのが、収骨や還骨、あるいは中陰等の儀礼の場面です。遺族は、その一つずつの儀式を経験しながら、次第に「遺族になって」いくのです。僧侶はその介添え人であったはずです。
近年、そういう儀礼の時間が衰退しつつあります。身近な葬儀社からは、「感染したわけでないが、ご時世ですからと葬儀を取りやめる家が増えている」と聞きました。以前から少子化とともにお葬式の縮小傾向はありましたが、これに拍車がかかりそうです。
それを非常識だと文句を言いたいのでありません。コロナの不安は誰もが抱えていますが、それを和らげたり癒したりする機能が、現在のお葬式に乏しいのだとしたら、その執行役である僧侶の責任も小さくないと思うのです。
葬儀とは何か。どういう機能があるのか。コロナの時代、改めて説明と納得が必要かと思います。