オウムの教祖を始め幹部7名が同日死刑に処されました。事件発生以来、23年、大きな区切りを迎えたわけですが、しかし、これでオウム問題が終了したわけではなく、生煮えの状態が続いています。
さまざまな論客がメディアで持論を展開しましたが、多くは事件の本質に踏み込むことなく、「後継団体の監視」や「テロの防止」などへと観点が移っていった印象があります。おそらく日本の知識層全体の宗教性や精神世界に対する不感症のようなものがあるのでしょう。オウムを「宗教の犯罪」として断じた論者は驚くほど少ないのです。
一人気を吐いたのは、(私の見る限り)作家の高村薫でした。朝日新聞7月10日にこう寄稿しています。
「形骸化が著しい伝統仏教の現状に見られるように、日本人はいまや宗教と正対する意思も言葉ももっていない」「教祖の逮捕から23年、日本社会がこの稀有な事件を十分に言葉にする努力を放棄したままこの日を迎えたことへの絶望」を語っています。
オウム事件の特異は、これが宗教団体による犯行であり、その動機に神仏や教祖への帰依があったことです。メディアや既成宗教がこれをエセ宗教、淫祠邪教、といかに叩こうが、オウムは宗教のある部分を背負っていたことはまぎれもない事実なのです。
高村はその本質を見抜いています。
「信心と帰依は信仰の本態である。また信仰は本来、自身を守るための殉教や殺戮もあり得る絶対不可侵の世界であり、もとより社会制度や通念とは相容れないところで立っている」
「(オウム問題が生煮えに終わったのは)信仰についてのそうした本質的な認識が私たちに欠けているためであり、自他の存在の途絶に等しい信心の何たるかを、仏教者すら認識していないこの社会の限界だったといえよう」
宗教は絶えず狂気や殺意のエネルギーを孕んでいます。歴史的にも、また現代においても、信心は時に国家や体制を超えていく存在であることも明らかです。そういった超俗的な力がいい方向に作用して、社会の抑止や鎮静、思慮させることができれば良いのですが、「理性や理念への無関心」「物質的な消費の欲望で人生を埋め尽くした」現代社会においては絶望的なほどの乖離がある、とも指摘しています。
應典院再建はオウムが出発点となりました。それは、既成仏教からの応答への模索であると同時に、信心と帰依に潜むエネルギーを表現や創造へと置換して、社会へ再配置していく、20年の試行錯誤であったと言えるのかもしれません。