わが死生観を「育む」本当の終活を。

(2020年09月28日 更新)

十年も前のことですが、末期状態にあった60代の女性の病床を訪ねたことがあります。最後に住職に話しておきたいことがあるとのことだったので、それなりの心構えで伺ったのですが、終活に熱心だった彼女はベッドでこう語りました。
「終活といわれるものはほとんどやり尽くしたけど、こうなって(余命僅かと知って)初めて肝心のことが何もやれていないということがわかった」
そこから二人で密やかな会話を交わしたのですだが、アクティブで何事も率直な物言いだった彼女からもらった最後の言葉が胸に染みました。

藤腹明子先生の新著「母に学ぶ家族介護の心得と作法13カ条」に、「納得して旅立つためには、死生観がとても大切だと思っています。死生観を育まずして、人生の終わりに近づいた段階で、自分が何のために生まれ、生きてきたのか、死ぬまで何をしなければならないのかを考えるのでは遅すぎる」と書かれています。病床の彼女の気づきは、それに近い。

終活に熱心な人は多いが、多くは死後の手続きであったり、実務であって、そこには大抵サービスの供給があります。「死生観を育む」チャンスであるのだが、「育む」というより「消費する」ものへとすり替わってしまうのでが、残念でなりません。経験的に、お墓やお葬式の検討を入り口に、人は死生観なるものと向き合うことになるのですが、どうも「高額なお買い物」に留まりがちです。

もちろん宗教の押し売りはごめんだし、多くの関心の大半は終末期の医療のあり方でしょう。医療サービスの検討が終活の大きな主題となっています。

むろん他人に死生観を強要してはなりません。が、日本人の死生観の原郷を知ることは大事な道しるべになるだろうし、医療もまた患者の生前意思があればそれを期待もし、最大限尊重もすると思います。「どんなサービスを受けたいか」だけでなく、「どう逝くのか」あるいはそれに際し「何をその拠り所とするのか」が、死に逝く人から語られることが大事なのではないでしょうか。死生観は自ら「育む」ものであり、願わくば僧侶はその「水先案内人」でありたいと思います。

藤腹先生に同書に「介護を通じて真の<終活>学ぶなり」として、「介護・看取り・死・死後に伴う一連のことがらは、介護される者、する者双方に対して、死生観を育む機会を与えてくれます」とあります。介護は、専門化、外部化すれば地域医療・看護とも重なりますし、未病段階を含めれば元気なうちにこそ終活は重要なのだと思います。今言われている「人生会議」も同じではないでしょうか。

「おてらの終活プロジェクト」を掲げて、丸2年が経ちました。お墓や葬儀・供養の相談・対話はもちろんだが、コミュニテイケアとして「まちの保健室」の毎月開催、「訪問看護ステーション」も間もなく開設となります。未病段階から、介護・看護・看取りさらに死後のケアまで含め、これを死生観形成のための地続きの学びとできるかどうか、そこに地域のお寺の役割が見えてくると考えています。

 

藤腹明子先生の講演会、10月3日(土曜日)大蓮寺で開催。ただいま受付中です。

2020/10/3 藤腹明子先生をお迎えして 仏教を通じて考える「看護と介護」