旧統一教会が国会で争論になるなど、また宗教の黒い問題が持ち上がっています。霊感商法は論外ですが、しかし、この問題、日本人の宗教音痴ぶりを露呈していないでしょうか。エリートである国会議員といえども、宗教に対する敬意(同時に畏れ)や理解がおよそ足りていないと感じます。
そもそも誰もが納得するような「よい宗教」も「わるい宗教」もありません。こうした事件があるとたちまち標的にされますが、よいかわるいかは個人の価値判断であり、それを社会が判定することは難しい。時の体制側から弾圧されながら、平和のために闘った宗教の歴史も忘れてはなりません。だから信教の自由は守られなくてはならないのです。
しかし、今回の旧統一教会の問題は、逆に体制にすり寄り、政治家と癒着した点に問題があります。お互い下心が見え見えなのです。政治家に限りませんが、知識人や有識者といわれる人たちも、簡単にいえばあまりに宗教を軽んじている。票の足しになるくらいにしか考えていなかったのでしょう。
欧米の場合は国によって違います。ドイツはキリスト教を主調とした政党が強いし、フランスは極端なくらい政教分離を徹底しています。先日の女王の国葬でも明らかですが、イギリスは堂々たる国教会の国です。米国では、大統領の宣誓式に聖書が用いられるのはご存知の通りでしょう(大統領戦のカギを握る「福音派」の存在も知られています)。
そういう国々は自国の伝統として、あるいは倫理や道徳の規範として宗教を重用するとともに、そうでないもの、わるい宗教には社会全体で対策する、場合によっては法律で罰則も辞さないのです(フランスの「反カルト法」には、何が「カルト」なのか、明文化された条項があります)。長い時間をかけて、宗教の正悪の両面性を十分認識した上で、そのようなつきあい方を定めてきたのでしょう。
宗教の名の下に不幸になる人があっていいはずがありません。反社会行為はいうまでもありません。宗教は、心の安寧や幸福に寄与するものですが、しかしそうでないものがあるのだとしたら、それを排除して終わりではなく、宗教の本質をよく見極める習性や教育が必要なのではないでしょうか。また、同時に、私たち宗教者がそれを行動にして示していかねばならないとも強く思います。