ふたつのお寺と「葬式仏教」

(2015年07月06日 更新)

今日、関西大学の宗教学の学生たちが、フィールドワークとして應典院にやってきた。みんな2回生、お寺の息子はいない。どうして宗教学なの?と訊くと、「おばあちゃんとお寺参りしているうちに興味が出て」とか「うちか家族みんな宗教が違うので、何でかなと」とか、自分の身近な関心から出発している。何と今日の日のために、事前に私の「葬式をしない寺」を読み込んできた、というから恐縮する。まず應典院を案内して、それから2時間、やりとりをしながら進めた。
いくつか質問を投げてもらったのだが、思いがけないボールも飛んでくた。
「死を扱ってきた大蓮寺と、生を扱ってきた應典院は、今後も役割は分担されるのですか」
考えさせられた。

私はふたつのお寺の住職を兼務している。檀那寺である大蓮寺が本寺であり、塔頭應典院はかなり異形の寺院である。應典院では若者中心で、葬式はしない。一方大蓮寺では高齢者中心で、当然葬式は行う。そう棲み分けされてきたのだが、学生はたぶん私の話を聞いて、何かを直感したのだろう。この対照的な2つの寺は、真逆のように見えるが、同じ軌道上にいて、互いを牽引しあっている。これは矛盾ではなく、両立ではないか。私も、触発されて、こんな説明をしたのだ。
大蓮寺は堂々たる葬式仏教の寺だ。葬式は手を抜いてはならない。儀礼も作法も粛粛と勤める。だが、葬式はそれまでの関係性の線上にあるのだから、セレモニーだけでなく、檀家であれば生前の関係性をたいせつにする。以前もここに書いたが、僧侶であれば、末期に檀家に枕元に招かれることが本望だ。それだけの信頼関係が両者に築けたかどうかだろう。
生前個人墓自然はもっとわかりやすい。生前なのだから、生きているうちに勉強会もすれば、宴会もする。最近は希望者に生前契約も始めた。死を共有しながら、生前の関係性を紡いで行く。死から生を照射するのである。
應典院はどうだろう。若者たちがみな死を意識しているとはいいがたいが、死の領域を避けているふうにも見えない。アーティストは進んで生死をテーマに作品を展示するし、さまざまな学習会では、生体の死だけでなく、社会、文化、家族などの「擬死」状態を学ぶ。エンディングセミナーなどは、葬送・医療問題を、終末期をよく生きるために学ぼうというものだ。

大蓮寺と應典院という、対極にあるような2つのお寺が、じつは同じ軌道上にあって、しかもそれぞれ生死の起点として真反対に拡張しながら、互いが重なり合う新しいゾーニングを進めている。大蓮寺は死から生へ、應典院は生から死へ。私は、思わすべてを包摂するように赤字の円弧を描き、つぶやいていた。
「これが本当の葬式仏教なのかも」
そうだ。葬式仏教とは儀式や制度のことではなく、死を見据えた遠大な生涯支援であり、死の行方を展望する壮大な物語作業でもあるのだ。死を中軸に据えて、死後と生前を交感する、たましいを架橋する作業なのだ。
大蓮寺と應典院という一対の存在が、寺という場の本領を描き出す。若い学生のひとつの質問に、気づかせてもらったことは大きい。
(写真は学生たちと。みな温和な男の子たちでした)

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