なぜ「宗派不問」?

(2014年07月13日 更新)

お寺の永代供養墓はたいていが「宗派不問」を謳う。儀礼は宗派の作法に則るが、当人が何宗かはこだわらない。霊園と同じ考え方だ。一方で宗派の「壁」を払うことで、申込者のハードルを下げる。それが常套の考え方だろう。

 昨日の日経夕刊トップに、京都の大本山(塔頭)が樹木葬を始めたと大きく紹介された記事があった。「有名寺院が運営している安心感と、京都が好きで申し込む人が少なくない」と寺側は言うが、ここも「宗派不問」である。

 樹木葬はもともと東北の地方寺院が始めた里山運動が原点である。それが東京のNPOによってさらに拡張した経緯がある。いずれにも環境活動や市民活動といった大義があるのだが、京都の名刹がわざわざ樹木葬に着手する志はどこにあるのだろう。

 それより気になるのは、ここでも「宗派不問」と掲げられていることだ。大本山の塔頭がそれを言うのは、家墓こそ正統な檀家であり、樹木葬は個別相手のいわば傍流という認識だからだろうか。ある程度の区別は必要かもしれないが、なぜ個々人を教化して、檀徒(信徒でもいい)として育成しないのか。

 私の見聞では、樹木葬を選ぶ人の圧倒的多数は宗教浮動層だ。これまで墓を結縁として「入檀」に運ぶのが一般的であったのに、そこを樹木葬だから「宗派不問」というのは、個人の入信を劣ったものとして見ているからなのだろうか。それだけ「家墓=檀家」という枠組みが強固ともいえるし、樹木葬など入信とさえ見なしていないともいえる。

 永代供養や合葬墓、樹木葬など、供養の形態は家から個人へと転換しつつある。それを、傍流と見るか、もうひとつの主流と見るか。

 大蓮寺の生前個人墓では、過去の宗派は問わないが、結縁者には全員浄土宗の戒名を授け、信徒として教化する。生前契約ならではかもしれないが、個人の時代だからこそ、いつまでも「宗派不問」を決め込んでいては、大本山も宗団も知らず知らず自壊作用を促すことにならないか。私の余計な心配かもしれないが。