お盆に忙しいフリをするの、やめます。

(2014年08月06日 更新)

若いお坊さんのFBに、時々はっとさせられるコメントが載っている。奈良のKさんのタイムラインにこうあった。

…「お盆に忙しいフリをするの、やめます」
暑いのと、お坊さんにしては拘束時間が長い日が続くので、やたら忙しい感じがするだけ。忙しさと疲れで、法要や回向のクオリティが下がっているのに、忙しさを充実感に勘違いしてしまうのをやめなきゃ。

そう言って自分に活を入れているのだろうが、「忙しい」から粗雑になってしまったら元も子もない。わが身をふりかえって反省する。

今日、東京近郊の檀家宅へ初盆詣りに伺った。さすがに滅多にないことなのだが、ぜひ、とお声をかけていただいた。大阪で暮らしていた老父を、関東の息子が引き取って、最期を看取った。息子も関西育ちなので、大阪にも大蓮寺にも馴染みがあるが、仏事の都度家族皆がお寺に参詣することはままならない。今後はともかく、初盆なので大阪の棚経が始まる前に、何とか来てくれないだろうか。そんな要請だった。
スーツケースに衣やら塔婆やら一式を入れて(仏壇の開眼もあったので洒水器も)、それなりに大層な道中だったが、辿り着いた檀家宅では歓待された。菩提寺とはいえ、大阪から初盆のため、わざわざ僧侶を招くというのは、家族行事の中でも格別のものではないか。一家のそんな軽い意気込みのようなものを感じた。

一日一軒だけの初盆詣は、時間がゆっくり感じられる。家族もそうだろう。息子は働き盛りの50代、子どもたちは会社勤めの20代。ふだんは忙しくしているのだろうが、この日だけは皆が都合をやりくりして仏壇の前に集合したのだ。
「仏壇はいわばお家の中の聖域です。ほんのひと時、仏壇と向き合う時間を大切にしていきませんか。家族の皆さんの祈りが日々折り重なって、ここは聖域になっていく。皆でそのように育てていっていただきたいのです」
私の話を、若い世代が神妙に聞いている。遺影の祖父から3代が仏壇に集い、祈りが継承される。家族であることを強く再認識する、そんな尊い時間だ。法話が長過ぎたかもしれない。
「ま、一口だけ」
法話が終わったら、居間に座卓が出され、冷えたゼリーが出された。家族と一緒に卓を囲んで、祖父のこと、子どもたちのこと、これからの仏事のことなど談話する。
生真面目な息子は、祖父の顔にそっくりだ。
「お寺のことは、遠方ですが、できるだけさせていただきたいと思っています」
妙な言い方だが、私の来訪が亡父を呼び戻し、この家族一人一人の縒りを合わせたのかもしれない。僧侶がいるから、辺りが澄んでいく。そうでなくちゃいけない、と思う。

猛暑の中の日帰りは、くたびれる。が、気持ちはとてもいい。お盆という季節に大事なものを届けられたかもしれない。そんな充実を感じるのは、一日一軒の「威力」なのだろうか。
明後日から、棚経が始まる。後半は施餓鬼が続く。さて、このお盆、「忙しいフリ」をしないでいられるか……改めて自分に尋ねてみることにしよう。