お寺とNPOによる「生前契約」を語り合う

(2014年07月06日 更新)

IMG 2515檀徒と信徒の違いはわかるだろうか。一般的には菩提寺にお墓があり、仏事を営む者が檀徒であり、代々家によって継承されるから檀家とは同義とされる。信徒は墓はないが、お寺に葬儀や法事を任せる人をいう。こちらは家単位ではなく、原則は個人だ。

少子化の上に、家族の形態が多様化して、イエ制度に基づいた先祖祭祀がゆっくりと後退していく。どの伝統教団も「個人の時代における教化・伝道の必要」を叫ぶが首都圏開教などがある程度でその成果はほとんど窺えない。信徒対策といえば聞こえはいいが、現代の個は葬儀や墓について習わしを知らないどころが懐疑的な意見も少なくない。気まぐれで、権利意識が強い「個」とどう向き合うのか、困難な課題を抱えている。

昨日、大蓮寺でエンディングセミナーを開催した。「生前契約」を取り上げたのだが、広間いっぱいの90名が参加して関心の高さが窺えた。「生前契約」の説明は以前にも書いたのでここでは繰り返さないが、わかりやすくいえば、エンディングノートの記述内容を第三者に法的に委ねて執行するための仕組みといえばいいだろうか。とくに私が関心があったのは、単身者の場合の死後事務(火葬や埋葬等)の実行について、であった。

当然ながら自分で自分を葬ることはできない。いくら親しいからといても血縁のない者が、死後の実務を代行することはできない。いわば家族の代わりになってもらう人(機関)を、生前に法的な遺言で委託するのが「生前契約」の要なのだ。セミナーでは、この分野の草分けであるNPO法人りすシステムの代表理事杉山歩さんを招いた。

じつは、今回は生前契約の紹介だけがねらいではなかった。副題に「お寺とNPOの協働」と掲げたように、具体的に大蓮寺とりすシステムが協力して当山の檀信徒のケアにあたる方針を打ち出した。檀家、そして生前個人墓の会員(一代限りの檀徒)あわせて400を超える人が対象である。

「自然」はお墓の継承が困難な単身者あるいは夫婦のみ世帯者のための個人墓である。いや、大蓮寺の檀家さんだって、この数十年の間、急速に縮小しており、少なくない檀家が「個人化」を余儀なくされている。

「住職さん。私が死んだら、ちゃんとお葬式あげてもらえるのやろか、遠縁の姪を頼るのは申し訳なくて」

そんな切実な相談を90歳を超えた老婆から受けたこともある。

これは大蓮寺だけでなく、大なり小なり日本の寺院が抱える問題であって、「生前契約」をお寺と専門性の高いNPOが協働することは今後の寺院の役割からいって妥当なことではないだろうか。葬式や供養など宗教儀礼が確実に執行されることは、実務的ケアだけでなく宗教的ケアの側面からも安心が得られると思う。また、僧侶の側からも、死後だけでなく生前事務(介護や看取りも含めて)にかかわることで、意識や行動も変わってくることだろう。

そこまではいい。問題はここからなのだが、そもそも宗教行為とは契約があって成り立つものなのだろうか。そんな原則的な問いが頭をよぎる。

「生前契約」では事前に死後の見積もりをすべて取るのだが、契約書では「信施」をどう扱うのか、布施や戒名をどう「予算化」して契約するのか、大きな壁が立ちはだかる。現実は葬儀の費用項目に、こっそり紛れ込んでいるのだろうが、それは「予約料金」とどこが違うのか。

「個人の時代」だからこそ契約関係を重んじようとするのであれば、代々の制度や過去の習わしとの反発は避けられない。個人にとって伝統とは本来非合理なものであり、納得し難いものなのだ。逆にそんなニーズに応じた新手の宗教サービスが出てこないとも限らない(すでに一部見られるが)。

かように生前契約は「死の個人化」を助長させていく側面を持つ。家族がいても、自分の意志通り、法的実行を選ぶ個人も出てくるだろう。それは、大胆な言い方をすれば、血縁主義に基づいてきた先祖祭祀を内部から解体する危険を孕む。葬式仏教を基盤から揺さぶるのである。

それでもなお私が生前契約に取り組むのは、今後50年スパンで、檀徒から信徒へ大きな構造転換を見通すためである。これからの信徒=自律的な個人がどう寺と関係を結ぶか、その鍵は死を見据えた生前関与しかない。「死を起点として結びついた、すなわち死に伴う様々な重い責任や負担をも共有することを前提とした、目的化した組織・集団」(星野哲「終活難民」)が、次代の寺、あるいは寺業のひとつの可能性と考えるからである。

大蓮寺ではこのお盆から「生前契約」の周知を始める。我ながら自己矛盾を抱えながらのスタートだが、その経緯はまたここでも報告していきたい、と思う。