お寺と終活。死を語り合う。

(2020年10月16日 更新)

老いとともに誰でもどう逝くか、に関心が深まります。人生最後のテーマであり、それと「どう逝きたいか」という生前の意思表示はセットになっています。

 

厚労省が推進しているACP(アドバンス・ケア・プランニング)という言葉はご存知でしょうか。別名「人生会議」とも言いますが、自分の人生で大切なことや希望する終末期の治療、ケアについて医療者や家族と繰り返し話し合うことを指します。自分だけの考えで閉じないで、第三者を加えて、いわば点検するのです。

すでにエンディングノートに書いているから大丈夫、という人もいらっしゃるかもしれません。延命治療や緩和ケアの事前検討は一般的になりましたが、しかし、人の心模様は移り変わるやすい。延命のあり方について十分理解と納得があったか、専門家の意見や、医療の情報も取り入れたか、など本人と周囲が「話し合う」プロセスが必要なのです。

日本の「死の質」は高くはありません。世界先進80カ国の中で14位(英国「エコノミスト」誌)。また、自分の死について意思表示は大半が賛成というが、実際に生前から書面作成している人はその3%程度に過ぎない、といいます。「話し合う」といいながら、今も死はその人だけの私ごととして閉ざされている感があります。

なぜ日本人には「死を語り合う」文化が乏しいのでしょうか。昨今の終活ブームはその反動のようにも見えますが、墓や葬儀の準備を急ぐことと、自分の死について考えることは、決して同期はしないものなのです。

 

お寺という場所が格別に荘厳さを感じさせるのは、そこでずっと死者を祀ってきたからです。死に一番近い場所であるが、死で終わらないことを教えてくれる場所でもあります。

しかし、ある意味、熱心な信仰になるほど、話し合う余地は薄いといえるかもしれません。信じるか信じないかだけが問われると、曖昧なもの、未確定なものはやがて寄り付かなくなる。それはお寺の場所の可能性を狭めてしまっているとも感じます。

そこで、お寺で終活、の登場です。

私も何度も体験がありますが、終活を扱うと僧侶も対話的にならざるを得ません。終活情報は僧侶にとってアウェーだし、そのニーズは千差万別であり、正解はないからです。また、とかく「上から目線」と言われる僧侶が、生活者の課題に対し謙虚になるのは、たいせつなことだ、と思います。お話を聞かせていただくのです。

 

まずは、葬儀や墓の相談から始めてみましょう。僧侶がそのお話相手になって、相談ごとを解きほぐすうちに、ポツリポツリと死について語りが生まれます。どう逝きたいか、どう弔われたいか、は、その人の死生観の芽吹きを促すのです。また、どう逝くかは、どこへ往くかと一対です。死生をつなぐ長いストーリーが紡がれていけば、人はいのちの行方を思い描くことができるかもしれないと思うのです。

お寺と終活には、ACPを本当の語り合い、「物語る力」へと導ける可能性がある。そう期待しています。