高齢者にとって、どう逝くか、は人生完成期における最大の課題だ。それと生前の意思表示はセットになっている。
ACP(アドバンス・ケア・プランニング)という言葉はご存知だろうか。自分の人生で大切なことや希望する終末期の治療、ケアについて医療者や家族と繰り返し話し合うことをいう。意思表示に第三者を加えて、いわば検証するのだ。
エンディングノートに書いているから大丈夫、というわけには行かない。延命治療や緩和ケアの記入欄は一般的になったが、時期や環境によって人の心模様は移り変わる。延命のあり方について十分理解と納得があったか、専門家の意見や医療の情報も取り入れたか、など本人と周囲が「話し合う」プロセスが必要なのだ。
日本の「死の質」は高くはない。世界先進80カ国の中で14位。また、自分の死について意思表示は大半が賛成というが、実際に生前から書面作成している人はその3%程度に過ぎない。死は私的な領域の中に閉ざされている。
かくも日本人は何故「死を語り合う」文化が希薄なのだろう。昨今の終活ブームはその反動のように見えるが、墓や葬儀の準備を急いだところで、自分がどう逝きたいのか、その本質論には追いつかない。
巷には生と死の学習会や、最近だとデスカフェなどがあるが、そこで話者に学者なんかが登場すると、統計だとか歴史だとか、肝心の話し合いが遠のいてしまう。「死を語り合う」ことは、勉強会とは違う。
寺院という場所の重量感は、そこでずっと死者を祀ってきたからだ。知識や情報が死者の声にかき消される。いきなり核心が問われるのだ。浄土宗でいえば「浄土往生」という死後、仏の国で生まれ変わるという信仰が生きてくるのかどうか。
しかし、信心決定を求められるのだから、そこに話し合う余地は薄い。信じるか信じないか、択一が問われ、信じないものはやがて寄り付かなくなる。話し合いを好む布教師さんも絵にならないだろう。
そこで、お寺で終活、である。私も何度も体験があるが、終活を扱うと僧侶も対話的にならざるを得ない。終活情報は僧侶にとってアウェーだし、そのニーズは千差万別で個別的だからだ。布教師さんがそうでないと言うつもりはないが、僧侶が生活者の課題に対し謙虚になるのは、たいせつなことだ、と思う。お話を聞かせていただくのだ。
いきなり信仰の問題をぶつけてくる人は少ない。まずは、葬儀や墓の相談ごとを窓口にしながら、僧侶がその対話者となって、その人の死生観の萌芽を促すのである。どう逝くかは、どこへ逝くかと一対である。死生をつなぐ長いストーリーが紡がれていけば、人は最期の光景を思い描くことができると思う。
医療者だけでは科学的話し合いに陥りやすい。お寺と終活には、ACPを本当の語り合い、物語る力へと導ける可能性がある。そう期待している。