お寺で、哲学カフェ

(2014年07月12日 更新)

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哲学カフェが應典院で初めてスタートしたのは、2000年の秋のことである。ナントカカフェというのは、今ではすっかり定着しているが、その頃はまだ耳に新しく、とりわけ「お寺」で「哲学」を「カフェ」するのが格別に新鮮だった。

ユニークな学芸書で注目の大阪大学出版会から、シリーズ臨床哲学「哲学カフェのつくりかた」が刊行された。そこに、應典院で始まった歴史的な? 1回目のカフェのようすが記録されている。

どういう経緯だったか記憶は定かではない。 阪大に臨床哲学という面白い一党がいて、大学の外で場を探している。應典院も臨床仏教みたいなことを志しているらしいから、何か一緒にやれないだろうか。詳細は忘れたが、そんな話が行き交って、今も続くコモンズカフェの1プログラムとして参加が決まった。2000年11月5日、「臨床哲学哲学カフェ&バー」を開催。その時は、お酒も出ていたのである。

本書に、その頃から現場にかかわっていて、今は同大学院准教授の本間直樹さんがこう寄稿している。

「臨床哲学を掲げた教授たちも、大学制度と学会誌論文に依存しきった哲学研究者に苛立ちを感じていたに違いない。だが、寺院でありながら葬式と檀家制度に見切りをつけた應典院のようなラディカルさが、果たしてそこにあっただろうか」

仮設のカフェであった。研修室に長机を並べて、コーヒーメーカーを借りてきて、マスターみたいな衣装をつけて、「お客」を迎えた。その時のテーマは「自己決定」「恋愛2001」「幸福と不幸」の3つ。20代から80代まで幅広い世代が集まった。テキストもない、正解もない。主催する方も、参加する方も試行錯誤だった。その日の驚きと発見は、本間さんの文に詳しい。

僭越ながら、應典院の基本スタイル「対話のコミュニケーション」を、私はこの現場から学んだ。哲学が臨床で語られるなんて、誰が考えたろうか。仏教も同じだ。難解な専門用語に閉ざさずに、仏教こそ場と関係をの中で語り直されなくてはならない。そう強く感じていた。

本書の監修者である鷲田清一先生が巻頭でこう述べている。

「哲学カフェはものごとについて同意や、問題の解決ではなく、問いの発見、問いの更新をこそ目指すということである。じっさい、哲学カフェではそれぞれの参加者は自らが立てた問いを、対話のなかで少しずつ、ときには劇的に、書き換えてゆく。その問いの書き換えのプロセスを共有するというところに、哲学カフェの意味の大半があるといってよい」

2000年から2003年まで哲学カフェは應典院で開催され、その後、場は数々の臨床へと飛び出て行く。そして14年。たまたま息子が臨哲に通ったことをご縁に、去年からは大蓮寺で年2回のカフェフィロ(=フィロソフィー)を開いている。6月のテーマは「人間らしいとはどういうことか」。何というか、ありがたいご縁である。